赤鉛筆を置く席
文学研究会の部室には、卒業生の文芸誌と、誰も捨てられなかった壊れた電気ポットが積まれていた。
皐月野澄久は窓際の席で、花房えりかの短編に赤を入れていた。向かいでは真壁泰河が、出版社から届いた内定書を封筒ごと丸めている。
「ここ、主人公が泣く理由を説明しすぎ」
「澄久にだけは言われたくない。あなたの長編、三百枚ずっと雨だった」
「もう消したよ」
えりかの笑いが止まった。澄久は来月から市役所で働く。二人は、仕事をしながら書くのだと思っていた。
「バックアップは?」と泰河。
「ない。小説もやめる」
「十二回落ちたから?」
「落ち続けても、書いてる間だけは何者かになれると思ってた。あれは夢というより、都合のいい身分証だった」
壁には、入会した年に三人で書いた〈十年後も互いの新作を読む〉という紙が貼られている。えりかが剥がそうとすると、澄久は止めた。
「約束を破るのは俺だけでいい」
えりかは大学院で近代文学を研究する。「私は書けなくても、読む側に残る」
泰河は丸めた封筒を伸ばした。「俺は編集になる。売れる原稿を選ぶ。たぶん友達の作品を落とす日も来る」
「じゃあ三人とも、同じ机には戻らないな」
「最初から机は一つしかなかったけどね」
澄久は笑い、えりかの結末を二行削った。最後の赤入れは容赦がなく、それだけに正しかった。
消灯時刻になり、三人は本棚を整理した。泰河が使いかけの赤鉛筆を差し出す。
「持ってけよ」
「それ、部室のだ。俺のじゃない」
泰河が机の引き出しを開けると、澄久宛ての落選通知が輪ゴムで束ねてあった。澄久は捨てようとしたが、えりかが一枚だけ抜き取る。『記念じゃない。あなたの判断が、今日だけの勢いじゃないって覚えておくため』。澄久は返せと言わなかった。
澄久は鞄を持ち、誰より先に出た。扉が閉まったあと、えりかは気づいた。赤鉛筆は澄久の空いた椅子に置かれ、削りたての芯が原稿の余白へ触れていた。赤い点がゆっくり滲み、書かれなかった次の一文のように広がっていった。