返事はだし巻きのあと
午後十一時を回っても、飯塚遼の頭には、古い単価が貼りついたままだった。
夕方、取引先へ送った見積書。最新版に差し替えたつもりが、添付したのは先月のファイルだった。先方からの返信はまだない。代わりに課長が「こちらで確認します」とだけ言い、遼を帰した。その声が怒っていなかったことのほうが、かえって重かった。課長は自分の席へ戻り、遼が片づける間にも黙って原価表を開いていた。画面に並ぶ数字の白さが、消灯後のフロアでいつまでも目に残った。
駅前の路地で、半分だけ下りた暖簾を見つけた。店内に客はおらず、カウンターの向こうで店主が布巾を絞っている。
「まだ、いいですか」
「一品なら」
遼は、だし巻き卵を頼んだ。
四角い鍋に卵液が流れ、じゅっと細い音が立つ。店主の箸が黄色い膜を折るたび、鰹出汁の甘い匂いが立ち上がった。皿に載っただし巻きからは白い湯気がほどけ、疲れで乾いていた目の前をゆっくり曇らせた。
箸を入れると、切り口から透明な汁がにじんだ。ひと口目は熱く、舌の上で遅れて塩気が来た。
スマートフォンには、課長への文章が三つ残っていた。
申し訳ありません。
明朝、先方へ私から連絡します。
ご迷惑をおかけしました。
どれも間違ってはいないのに、送信を押せない。謝るだけなら今夜でもできる。だが、明日の朝、課長が先に会社へ着き、正しい見積書まで作ってしまえば、自分はまた「謝る人」で終わる。
店主が二切れ目を見て言った。
「冷めると、出汁が分かりにくくなるよ」
それだけだった。
遼は画面の文章を消した。代わりに、明日の予定表へ八時十分と入力する。出社。原価表の確認。見積書を作り直す。八時半、課長へ直接報告。九時、取引先へ電話。
先方が怒るかもしれない。契約が延びるかもしれない。課長の評価も、もう元には戻らないかもしれない。
それでも、先に自分の手を動かすことはできる。
最後の一切れを頬張ると、少し冷めただし巻きは、最初より出汁の輪郭が濃かった。飲み込んだあとも、喉の奥に温かな塩気が残っていた。