返却日のない匂い

浜口蓮実が市立図書館の相談カウンターに持っていけた手掛かりは、「雨の日の押し入れみたいな匂い」だけだった。

「題名は?」

「忘れました」

「作者」

「たぶん外国の人」

「絵は」

「青かった気がします」

久世伊織は黒い手袋の指先で机を二度たたいた。感情の起伏が背表紙ほどもない男で、利用者の間では“返却期限より厳しい”と噂されている。

「手掛かりとしては、ほぼ匂いだけですね」

「すみません」

「謝罪は検索語になりません」

蓮実は帰ろうかと思った。母が亡くなって三年、実家を片づけることになった。幼いころ、熱を出すと母が読んでくれた本があった。内容は覚えていない。ただページを開くたび、湿った木と石鹸が混じった匂いがした。もう一度だけ確かめたかった。母の声を忘れた自分にも、その本が開く扉が残っているのか。

久世は質問を変えた。

「読んでもらったのは朝ですか、夜ですか」

「夜です」

「怖い話?」

「いいえ。眠る子が、家の中を歩く話」

「家族は出ますか」

「顔のないお母さんが、最後に毛布を掛けます」

黒い手袋が、児童書の検索端末を滑った。題名ではなく、翻訳年、色彩、家、夜、母、毛布。久世は候補を七冊出し、古い閉架書庫へ消えた。

戻ってきた彼が差し出した一冊は、青くなかった。表紙は灰色で、窓だけが青い。

蓮実が開く。紙から、雨を吸った木箱の匂いが立った。奥付には二十七年前の発行年。ページの端に、ごく薄い石鹸の香りまで残っている気がした。

「これです」

声が震えた。久世は視線を外し、貸出票を処理した。

「返却日は守ってください」

いつもの決まり文句らしい。けれど彼は本を透明な袋に入れ、さらに薄紙を一枚挟んだ。

「匂いが逃げるので、読み終わるまで袋は捨てないでください」

「返したら、もう嗅げなくなりますね」

久世は黒い手袋を片方だけ外した。裸の指で、灰色の表紙をそっと押さえる。

「本は返してください。思い出まで返す必要はありません」

蓮実が出口へ向かうと、背中にもう一度、低い声が届いた。

「返却日は守ってください。次に探す本が、待っていますから」