退院先の空欄
病院の相談員から電話が来たのは、紬希がコンビニのおにぎりの封を切った瞬間だった。
「退院後の行き先について、ご家族で確認をお願いします」
画面には父と兄も参加していた。父は開口一番、「つむちゃんのところでいいだろう」と言った。
兄の画面には車のハンドルが映り、父の画面は天井を向いている。誰も紬希の部屋を見たことがないのに、空いている場所のように話が進んだ。相談員だけが、「ご本人のお考えは」と一度問い直した。
紬希の手が止まる。父がその呼び名を使うのは、頼み事を断らせたくないときだった。実家には今も学習机が残り、父はそこを「お前の部屋」と呼ぶ。だが紬希のワンルームに、歩行器を置く余白はない。
「一か月くらい会社を休めばいい。娘なんだから」
兄は黙っていた。相談員の向こうで、書類をめくる音がした。
紬希はおにぎりを皿へ置いた。
「私の家は退院先にできません。実家へ戻る場合も、私が住み込む前提にはしないでください」
父が「でも、つむちゃん」と重ねる。
「その呼び方も、今はやめて。紬希です」
声が震えたのは、怒っているからだけではなかった。父の手術が怖い。転ばないかも心配だ。だからこそ、その心配を自分一人の暮らしと交換したくなかった。
相談員が、訪問介護、配食、短期入所の空きを順に説明した。兄が初めて「費用は俺も出す」と言った。父は長く息を吐いた。
「じゃあ、退院の日だけ来られるか」
「迎えには行く。でも泊まらない。次の訪問日は、その場で決める」
父はすぐには返事をしなかった。やがて、「分かった、紬希」と言った。謝罪ではないし、約束が守られる保証もない。それでも、古い呼び名ではなかった。
電話を切ると、おにぎりの海苔は少し湿っていた。紬希は一口かじり、病院から届いた共有書類を開く。
〈退院後の主介護者〉の欄は空白だった。
紬希はそこへ自分の名前を書かなかった。代わりに備考欄へ、〈家族・専門職で分担。単独の主介護者を置かない〉と入力した。空欄を誰か一人で埋めないことが、今夜決めた最初の退院準備だった。