送信取消のない朝
午前九時十二分、私は取引先に「最終版」と書いた企画書を送った。
その三分後、表紙の社名が先月まで競合していた会社のままだと気づいた。
喉の奥が冷たくなった。送信済みフォルダを開き、閉じ、もう一度開く。取り消しボタンはない。昨日の自分が残したファイル名は「ほんとに最終」「今度こそ最終」「最終の最終」と三つ並んでいた。
失敗すると、私はまず痕跡を消す。共有フォルダの履歴を整え、誰かに見つかる前に差し替え、うまくいけば黙っている。ばれなかった日だけを「仕事ができた日」と数えてきた。
チャット欄に、いつもの文章を打つ。
《すみません、私の確認不足で大変なことをしてしまいました。いつも詰めが甘く、本当に申し訳なく……》
そこまで書いて全消去した。
代わりに、三行だけ入力する。
《九時十二分送付の企画書に、表紙社名の誤りがあります。私が旧データを使用しました。修正版を九時二十分までに送付し、先方へ訂正連絡します》
送信すると、チームの画面に私の名前が残った。消せない形で、失敗と並んでいた。
上司から返ったのは、《了解。先方への電話だけ同席する》だった。励ましでも叱責でもない。その短さが、今はありがたかった。
電話口で一度だけ謝り、正しい資料を送った。先方の担当者は「確認します」と言った。許されたわけでも、信頼が元通りになったわけでもない。胸のざわつきはまだ続いている。
昼前に《修正版を受領しました》とだけ返信が来た。私はその文面から、怒っているか、呆れているか、取引を切るつもりかまで読み取ろうとした。カーソルを返信欄へ置き、追加の謝罪を打ちかける。けれど必要なのは受領への礼だけだと気づき、《ご確認ありがとうございます》で終えた。
返信したあと、私は送信済みフォルダをまた開きかけた。何度見ても社名は直らないし、何度責めても九時十二分には戻れない。
指を止め、メールアプリを閉じた。
机の端に伏せたスマートフォンが一度震えたけれど、私は裏返さなかった。次の打ち合わせ用の白い資料を開き、最初のページに、今度は社名を一度だけ確かめた。