送信取消より先に
「送信取消って、二分以内なら間に合うよね」
水無瀬叶恵は、休憩室で同期にそう聞いたことがある。仕事の愚痴を本人へ誤送信したらしい同期は青ざめていたが、叶恵は笑って励ました。二分あれば、たいていの失敗はなかったことにできる。
金曜の二十一時、叶恵は駅前のカフェで、親友へ送るつもりのメッセージを打った。
《今日で御崎くんを好きなの、やめる》
《来月から別チームだし、仕事仲間のまま離れるほうがきれいだから》
送信先に表示されたのは、親友ではなく御崎恭介だった。
似てもいないアイコンを、どうして間違えたのか。指が冷たくなり、送信取消を押す。けれど画面には先に《既読》がついた。
叶恵はスマホを伏せた。恭介とは入社以来五年、昼食も残業も自然に隣だった。けれど彼は来月から新規事業チームへ移る。部署が違えば、話す理由は減る。それを告白のきっかけにするほど、叶恵は勇敢ではなかった。
返信は来ない。
十分後、店の扉が開き、息を切らした恭介が入ってきた。コートも着ず、社員証を首から下げたままだった。
「取り消したから、読んでないことにして」
叶恵が先に言うと、彼は向かいではなく隣の椅子へ座った。テーブルへ置いたスマホには、毎週金曜の予定が並んでいる。来月も、その次の月も、十九時。《叶恵と夕食》。
「別チームになるだけで、予定まで消す必要はない」
「仕事仲間じゃなくなったら、何て呼ぶの」
恭介は答えの代わりに、叶恵のスマホをそっと裏返した。連絡先の表示名を《御崎くん》から《恭介》へ変え、自分の端末では《水無瀬》を《叶恵》に直す。
それから、テーブルの下で握りしめていた叶恵の手を開き、指を重ねた。逃げる余地を残す弱い力だったから、叶恵のほうから絡める。
「取消は?」
「しない。予定も、名前も」
店員が二人分の水を置く。恭介は手を離さないまま、来週の予約を確定した。
二分あれば失敗を消せると思っていた。
けれどあの夜、二分より先についた既読が、五年分の間違いをようやく間に合わせた。