逆向きのベランダ

環は帰宅すると、鞄を床に置くより先に会社のチャットを開く。食事は流し台の前で済ませ、返信が途切れた深夜にだけ、借りた部屋へ戻ってきた気がした。

今週、希望していた新規案件の担当が別の人に決まった。理由は「環さんは細かい修正に強いから」。断れず笑った言葉が、帰宅後も胸の内側に残っていた。

その晩、隣室のリディアがベランダの仕切り越しに顔を出した。クロアチアから来た彼女は、洗濯物をなぜか室内側ではなく、町へ見せるように干す。白いシャツの袖が夜風に泳いでいた。

「環、この建物でいちばん遠い音、知ってる?」

挨拶の代わりにそう聞かれ、環は首を振った。救急車なら毎晩聞くし、電車は三分おきに通る。正解を探していると、リディアは洗濯ばさみを一つ外し、掌に載せた。

「明日、一分。電話を部屋に置いて、ここで聞いてみて。遠い音を一つ見つけたら、これは返して」

理由は言わなかった。翌日も仕事は終わらなかった。企画から外された案件の修正だけが、二十一時を過ぎて届いた。環は反射的にノートパソコンを開き、ベランダのガラスに映る自分の顔を見た。

洗濯ばさみが窓辺にあった。

スマートフォンを机に伏せて外へ出る。冷えた手すりに触れ、秒を数えた。近くでは室外機が唸り、下の道路で自転車のベルが鳴る。その奥に、長く細い汽笛があった。どこへ向かう船か分からない音だけが、締切も宛先も持たずに伸びていた。海は見えない。港まで電車で四十分かかる。それでも音だけは、屋根と屋根の隙間を渡ってきた。

室内で着信音が鳴った。上司の名前が光っている。環は一度だけ振り返り、汽笛が消えるところまで聞いた。

一分後、彼女は机へ戻った。チャットの入力欄には、いつもの「今夜中に対応します」が途中まで打ってある。環はそれを消した。

〈確認しました。明朝、九時から着手します〉

送信すると、洗濯ばさみを握って隣のベランダへ向き直った。仕切りの向こうはもう暗かったが、環は自分の椅子を初めて、部屋ではなく夜の町へ向けて置いた。