金縁の消えたところ
御舟透子が喫茶「錫蘭」に入ったのは、断りのメールを送る場所がほしかったからだった。
依頼されたのは、無名の新人が書いた短編集だった。編集者は、透子が個人サイトへ載せた一枚の絵を見つけてくれた。会社で毎月何十ページ作っても届かなかった場所へ、名前のない仕事だけが先に届いていた。
断れば、明日からも安全だった。ただし、自分の絵を選んだ人へ、自分で返事をする機会も失う。
小さな出版社から、装丁の仕事を頼まれていた。会社では雑誌のレイアウトを整えるばかりで、自分の名が紙面に載ることはない。嬉しかったのに、締切まで三時間になっても、透子の画面には「今回は辞退いたします」としか書けなかった。
店主が置いた白いカップには、細い金縁があった。ただし、口をつけるあたりだけ、金がきれいに消えている。欠けても曇ってもいないのに、そこだけ白磁がむき出しだった。
透子は指で縁をなぞりかけ、やめた。
「古いものですか」
店主は答えず、カップを明かりへかざした。縁を布で一周ぬぐい、金の残った側ではなく、消えた側を透子へ向けて戻す。検品を終えた品のような、迷いのない置き方だった。
飲むたび、唇は白い部分へ重なった。何百人分かの口が同じ場所を選び、飾りだけを少しずつ薄くしたのだろう。金がなくなった箇所は、ほかよりなめらかだった。
透子は辞退の文面を閉じ、添付欄へ三枚の試作を入れた。それでも送信者名に会社名を残していたことに気づき、手を止める。
会計で、店主は複写式の伝票に金額を書いた。宛名を尋ねられ、透子は反射的に勤務先を答えそうになった。
「御舟透子で」
店主は一度も聞き返さず、四文字を端正に書いた。客用の一枚を切り離し、金縁の消えたところと同じ幅だけ、紙の上端を指で押さえて渡した。
席へ戻った透子は、メールの署名から会社名を消した。代わりに、伝票の文字を見ながら自分の名を打つ。
件名を「装丁案送付」に変え、白い縁へ最後に一度だけ口をつけた。それから透子は、金色の送信ボタンを押した。