針の止まる舞踏会
リディアが古着屋で買った青いドレスには、裾の内側に一行だけ注意書きがあった。
――踊っている間、時は止まる。ただし一回転ごとに、相手との思い出を一つ失う。
王城の舞踏会で、その呪いを使うつもりはなかった。今夜はノエルとの婚約が発表される。彼が初めてくれた白い花も、雨の日に差し出した片方の手袋も、胸の奥できちんと輝いていた。
ファナは、平民育ちのリディアが宮廷で笑われた日、ただ一人隣に座ってくれた。礼法を間違えるたび扇の陰から合図を送り、婚約が決まった夜には自分のことのように泣いた。ノエルとの未来が「明日」なら、ファナは彼女をここまで運んだ「昨日」だった。どちらも選べると思っていたのは、毒の粉を見るまでだった。
だが乾杯の直前、リディアは親友ファナの杯に、給仕が灰色の粉を落とすのを見た。叫ぶより早く楽団が鳴り、杯が唇へ運ばれる。
「踊って」
リディアはノエルの手を取った。
一回転すると、音が消えた。宙に浮いた花びらも、人々の笑顔も止まる。リディアたちだけが、凍った広間を滑っていく。
二回転目で、ノエルと初めて喧嘩した理由を忘れた。
三回転目で、仲直りに半分ずつ食べた焼き栗の味が消えた。
四回転目で、彼が雨の中を走って届けてくれた手袋が、なぜ宝物だったのか分からなくなった。
「もうやめよう」
ノエルの声だけが聞こえた。彼は呪いを知らないはずなのに、握る手が震えている。
ファナまで、あと一回転だった。
「ごめんなさい」
「何に?」
「たぶん、あなたを好きだったことに」
最後の回転で、婚約を申し込まれた夜がほどけた。リディアは止まった杯を叩き落とす。銀の床で砕けた瞬間、音楽と悲鳴が戻った。
ファナは無事だった。給仕は取り押さえられ、誰もがリディアを英雄のように見た。
ただ一人、ノエルだけが泣きそうな顔で彼女の前に立った。
「リディア。僕が誰か、分かる?」
胸元には、見覚えのない婚約の花が刺さっている。
リディアは礼儀正しく微笑み、彼の手を離した。