鉛筆がなくなるまで
大庭千景が祖父・兼造から受け取った形見は、親指ほどに短くなった大工用鉛筆だった。
鑿も鉋も、立派な道具は弟子たちへ渡った。工房の土地は売られ、建物も月末には取り壊される。
「私には、これだけ?」
兼造はいつも鉛筆を右耳に挟み、千景が話しかけても、図面から顔を上げない人だった。
生前、建築士を目指すと話したときも、鼻で笑った。
「紙の上の家は、雨漏りせんからな」
応援されていないと思っていた。その最後が、削ることさえ難しい鉛筆一本。千景は透明な箱へ入れ、使わず保存するつもりだった。
解体前日、工房へ行くと、元弟子たちが壁や床を撫でていた。柱の裏には、鉛筆で無数の線が引かれている。
〈千景の雲まで届く家〉
〈千景の犬が屋根を走れる家〉
〈千景の、けんかしても同じ食卓へ戻れる家〉
どれも幼い千景が落書き帳に描いた、でたらめな家だった。兼造はそれを木材へ写し、寸法を計算し、建てられる形に直そうとしていた。
「親方、あんたの絵を持ってきては、仕事の合間に悩んでたよ」
弟子の一人が笑った。
「雲まで届く柱は、最後まで決まらなかったがな」
千景は透明な箱から鉛筆を出した。
解体で失われる工房を、せめて図面に残そうと思った。床板の幅、窓の高さ、傷だらけの作業台。鉛筆は指の中でどんどん短くなった。
弟子たちも寄ってきた。
「ここに、最初に叱られた跡」
「この梁は、親方が一晩で直した」
「窓際に、昼寝の場所も書いてくれ」
一枚の図面に、工房で過ごした人たちの記憶が集まった。
最後の線を引く前に、鉛筆はつまめないほど小さくなった。千景がためらうと、弟子が言った。
「道具は、なくなるまで使われたら本望だ」
千景は鉛筆を寝かせ、側面の黒鉛で太い一本を引いた。
半年後、その図面をもとに、町の空き倉庫が子ども向けの工作室へ生まれ変わった。入口の梁には、兼造が残した言葉を刻んだ。
〈紙の上の家は雨漏りしない。だから、思い切り大きく描け〉
形見の鉛筆は、もう残っていない。
けれど千景が引いた最後の線は、屋根となって、今日も誰かの頭上にある。