鍋のふちまで
宗介が母の再婚相手の家を訪ねたのは、生命保険の書類に判をもらうためだった。
母は遅番で、玄関を開けた久志は、エプロンの腹に茶色い染みをつけていた。
「ちょうどよかった。これ、どうにかならんか」
台所では、カレーが鍋の底で小さく焦げていた。
宗介は靴も脱ぎきらないうちに、別の鍋を出した。上澄みだけを移し、すりおろしたリンゴと牛乳を加える。久志は横で玉ねぎを切り直した。包丁の音だけが、二人の間を行き来した。
母が再婚して三年。宗介はこの男を名字で呼び、久志も宗介を「君」と呼んだ。父の代わりをされるのが嫌で、正月にも十分といなかった。
「辛いの、平気だったか」
「前よりは」
「そうか。美奈代さんは甘口しか食べんから」
久志は鍋に唐辛子を振りかけようとして、宗介に手首を止められた。
「取り分けてから」
「ああ。そうだな」
二人分だけ辛くして、母の分は白い小鍋に残した。久志は味見をし、黙って水を飲んだ。辛すぎたらしい。宗介は笑いそうになったが、代わりにヨーグルトを出した。
食卓には、母の椅子を空けたまま、皿が二枚並んだ。久志は仕事の話も、父親らしい説教もしなかった。ただ、焦げを救う方法をメモ帳に書き留めた。
食器を洗う段になると、久志は皿を落としかけた。宗介は横から受け取り、久志をすすぎ役に回した。役割が決まると、沈黙はさほど重くなかった。
食べ終えると、宗介は判をもらった書類を鞄にしまった。
「じゃあ」
「待て」
久志は保存容器にカレーを詰めた。蓋に油性ペンで日付を書き、その横に「辛い方」と付け足す。
「持って帰れ」
「冷蔵庫、小さいんで」
「なら、ここに置いとく。明日でも来週でも、勝手に温めろ」
久志はそう言って、玄関脇の小皿に鍵を一つ置いた。説明はしなかった。宗介も礼は言わず、鍵だけポケットに入れた。
外へ出ると、服にカレーの匂いが移っていた。駅へ向かいかけて、宗介は振り返った。台所の窓に灯りがあり、鍋のふちから白い湯気がまだ上がっていた。
書類に不備があれば、また来ればいい。そうでなくても、辛い方は残っている。