鍋底のひとさじ
「帰ったら、お父さんに味噌汁を作って」
母がそう言ったのは、面会終了のチャイムが鳴る三分前だった。
仁科千景は、もっと大きな頼みを覚悟していた。押し入れの箱を処分してほしいとか、弟に何か伝えてほしいとか。なのに母は、病院の白い掛け布団の上で指を一本立てた。
「一杯でいい。鍋いっぱい作ると、あの人、三日飲むから」
帰宅すると、父はまだ仕事から戻っていなかった。台所には朝のコーヒーカップが伏せられ、冷蔵庫には半丁の豆腐と、母が輪ゴムで口を閉じた油揚げがあった。
冷蔵庫の扉には、母の字で「木曜 油揚げ」「金曜 豆腐」と書いた付箋が貼られている。今日は金曜だった。千景は付箋を剥がそうとしてやめた。母は曜日ごとに食材を使い切り、父が買い足しすぎるのを防いでいた。自分がいなくなったあとの献立まで決めたのではなく、ただ今夜の冷蔵庫を整えたかったのだと思うことにした。
千景は鍋に水を入れた。だしの袋をどれだけ煮ればいいのか分からず、母に電話をかけかけてやめた。面会中、母のスマートフォンは枕元の引き出しにしまわれていた。看護師に預けた酸素の音まで思い出しそうになり、火を少し弱くした。
湯が沸くまで、父の椀を探した。食器棚の奥に、縁が一か所欠けた黒い椀がある。母は何度捨てようとしても、父がこれでないと味が違うと言って戻した。千景は欠けた部分を自分と反対側へ向け、調理台に置いた。
豆腐は包丁で切らず、母がしていたように手のひらで崩した。大きさはそろわない。油揚げは細くしすぎた。味噌を溶く段になって、容器の底に残ったひとさじが見えた。
いつもなら新しい袋を開ける量だった。けれど母は、冷蔵庫を空にする順番まで決めていたのだろう。
千景はそのひとさじだけを網じゃくしに載せた。薄いかもしれない。父は濃い味が好きだ。それでも、味見はしなかった。
玄関で鍵が回る音がした。
「ただいま。母さん、今日はどうだった」
千景は答えず、椀に不ぞろいな豆腐を三つ入れた。鍋を傾けると、油揚げが一筋、湯気の中を滑った。
最後の一滴まで椀に注ぎ、空になった鍋を五徳へ戻した。