鍵を渡す前に
ホテルに入社して三週間、宮下澪が初めて名指しで怒鳴られたのは、金曜のチェックインが最も混む十九時だった。
「渡された鍵で部屋を開けたら、知らない人のスーツケースがあったんです。シャワーの音までした。どういう管理ですか」
カウンター前の女性は、カードキーを二本、刃物のように並べた。背後には十人ほどの列が伸びている。主任は小声で「アップグレードと館内券。定型どおりで」と言った。
澪は謝罪しながら、キーの履歴を開いた。封筒には八一二号室。予約画面も八一二。だがカードが解錠したのは八二一号室だった。
入力ミスなら、それで終わる。けれど八二一には、十八時四十三分に別の客へ発行した記録がある。澪は足元のごみ箱に、剥がれた封筒の糊紙を見つけた。消毒液で湿った封筒が二枚重なり、カードだけが入れ替わったのだ。
八二一の客は、今ごろ八一二の鍵を持っている。
女性は「私が入ったせいで、向こうの人にも怖い思いをさせた」と言った。澪は首を振った。「お客様のせいではありません。鍵を渡した側の責任です」。その言葉を口にした途端、定型の謝罪より重いものが、自分の名札に載った気がした。
「主任、列を止めます」
「一件のクレームだよ。先にお詫びを」
「二部屋分の事故です」
澪は両方のカードを即時無効にし、八二一へ内線をかけた。つながらない。ベル係に廊下で待機を頼み、宿泊者の携帯へ連絡する。相手はまさに八一二のドアへカードを当てるところだった。澪はその場から離れないよう頼み、係員が本人確認をしてから新しい鍵を手渡す段取りを組んだ。廊下で二人の客が鉢合わせないよう、動線も分けた。
女性には別室を用意し、澪自身が荷物を運んだ。部屋の前で、新しいカードを女性自身に試してもらい、解錠履歴をその場で確認した。戻ると、主任がため息をついた。
「館内券だけで収められたかもしれないのに」
「収めるのは怒りであって、事故ではありません」
澪は引き継ぎノートに、封筒へカードを入れた後、画面と印字番号を別々の者が照合する手順を書き足した。行列はまだ残っていた。制服の襟には、走った汗が冷えている。
次の客がカウンターへ進み、少し不安そうに予約画面を見せた。
主任が交代を促す前に、澪は新しい封筒を一枚だけ取り出した。
「お待たせいたしました。次のお手続きは、私が承ります」