鍵穴に残る午前一時
午前零時五十分。退去期限まで十分の部屋で、守谷基晴は真鍮の合鍵を指先で回していた。
家具はもうない。床には冷蔵庫の四角い跡だけが残り、玄関では管理会社の返却ボックスが赤く点滅している。窓の外を、最終バスの青い灯だけがゆっくり通り過ぎた。午前一時を過ぎれば追加料金が発生する。
スマートフォンが震えた。半年前に別れた槙野都和だった。
「まだ、部屋にいる?」
「鍵を返したら出る」
「その合鍵、黒いカバーがついてる?」
基晴は肯定した。別れた夜、テーブルに置かれていた鍵だ。都和から〈今夜は帰れない〉とだけ届き、朝まで待っても戻らなかった。浮気だと思った。鍵を持ち、荷物をまとめ、彼女を着信拒否にした。
「カバー、外してみて」
爪を差し込むと、硬化したゴムが割れた。内側から、米粒ほどに折られた紙が落ちた。
〈弟を警察へ迎えに行く。朝、戻ったら話そう。逃げないで待ってて〉
時刻は零時五十四分。
「弟さんだったのか」
「補導された。あなたに知られたくないって泣くから、説明を後回しにした」
「じゃあ、あの鍵は」
「あなたが終電を逃しても入れるように作った。渡す勇気がなくて、置いた」
基晴は壁にもたれた。自分が拾ったのは別れの証拠ではなく、同じ場所へ戻るための鍵だった。
「どうして今さら電話した」
「管理会社から連絡が来たの。鍵が一本足りないって。それと、明日の便で出るから」
「どこへ」
「ヘルシンキ。二年」
それは、二人で行けたらと話していた研修先だった。都和は応募を取り下げたと聞いていた。
「取り下げたんじゃなかったのか」
「あなたがいなくなったあと、出し直した」
廊下でエレベーターが開く音がした。管理会社の夜勤員が来る。零時五十九分。
「基晴」
「うん」
「紙、見つけるの遅いよ」
責める声ではなかった。それがいちばん痛かった。
基晴は〈気をつけて〉とだけ言い、通話を切った。黒いカバーの破片と小さな紙を財布へ入れる。合鍵は返却ボックスの口へ差し込み、奥で落ちる音を最後まで聞いた。