鏡の向こうの一名
櫻庭湖々は、赤い指示棒を三人ではなく、壁一面の鏡へ突きつけた。
蔵前志岐が息を呑み、伏見谷慶が「ふざけるな」と怒鳴る。天井には一文だけが光っていた。
〈五分後、この部屋にいる人間から犠牲者を一人指定せよ。指定が成立すれば、残る参加者を解放する〉
三人の首輪には小型の注射針。誰か一人を選ばなければ全員に毒が入る。志岐は慶を疑い、慶は湖々を指した。湖々だけが、鏡を見ていた。
鏡の下端が、一定の間隔で白く曇っては消える。こちら側の呼吸ではない。志岐が掌で拭っても、白さは内側から戻った。誰かが鏡のすぐ裏で息を殺している。椅子が軋む微かな音まで届いた。さらに床の換気口から伸びる格子は、鏡の下をくぐって向こうまで一枚につながっていた。
「そこに誰かいる」
『鏡は壁です。指定対象は参加者から選びなさい』
加工された声が答えた。その瞬間、湖々は笑った。
「規則には参加者とは書いてない。それに、ここは建築図面でB七号室。制御卓のある窪みまで同じ室番号よ」
誘拐された直後、搬送用エレベーターの点検票を見た。〈B七号室・観察区画含む〉。一方鏡は仕切りであって、部屋の境界ではない。
残り十秒。湖々は指示棒の先を、鏡の中央より少し右へずらした。曇りが生まれる位置。声が聞こえる位置。
「犠牲者は、鏡の向こうで私たちを見ている人」
赤い走査線が鏡を透過した。向こう側に、人型の輪郭と脈拍が浮かぶ。
〈人間一名を確認。指定成立〉
鏡が透明になった。制御卓の前で、仮面の男が椅子を蹴って立ち上がる。首に針付きの管理者用認証環があった。公正さを演出するため、自分にも同型装置をつけていたのだ。
男の環だけが赤く光り、三人の首輪は外れた。
慶が震える声で言う。
「最初から、あいつを選べたのか」
「最初から同じ部屋にいたからね」
湖々は開いた出口へ歩いた。
「人を一人捨てさせたいなら、自分だけを数の外へ置いたつもりにならないことよ」
鏡の向こうで、今度は主催者の悲鳴が部屋を曇らせた。