鏡の裏側は空室です
岩倉灯里が借りた部屋には、洗面所の壁一面を覆う大きな鏡があった。
築三十年の割に鏡だけが新しい。管理人は「前の入居者が置いていった」と説明し、取り外さないよう念を押した。
入居して一週間ほどで、妙なことが始まった。
風呂を使っていないのに鏡の中央だけが曇る。歯磨きをしていると、ガラスの向こうから椅子を引く音がする。朝には、鏡の右下に脂っぽい指紋が残っている。
契約サイトに残っていた三年前の室内写真も調べた。鏡の前には前の入居者らしい女性が立っている。だが、正面から撮った写真なのに、鏡の中には撮影者が映っていなかった。
灯里は指先を鏡へ当てた。
普通なら反射した指との間にわずかな隙間ができるはずなのに、爪と爪はぴたりと触れた。
管理人へ電話すると、すぐに笑われた。
『よくある迷信ですよ。裏側は空室ではなく、厚いコンクリート壁です』
「でも、音がするんです」
『配管でしょう。鏡は絶対に外さないでください。割ると交換費用が高いので』
その晩、灯里は鏡の四辺へ養生テープを貼った。誰かが動かせば、必ず剥がれる。
午前二時、洗面所から電子レンジの終了音がした。
鏡の向こうで、男が小さく咳払いをした。
続いて、灯里の電話が鳴った。管理人からだった。
『眠れませんか』
「今、どこにいますか」
『管理室です』
受話器の奥で、湯を注ぐ音がした。
同じ音が鏡の向こうからも聞こえた。
灯里は震える手で洗面所の照明を消した。
暗くなった鏡から、自分の姿が消えた。
代わりに、細長い部屋が透けて見えた。折り畳み椅子、電気ポット、食べ終えた弁当、壁一面のモニター。そこには寝室、台所、浴室で過ごす灯里が映っている。
中央に、電話を耳へ当てた管理人が座っていた。
目が合った。
男は慌てず、唇の前へ人差し指を立てた。
受話器から、優しい声がした。
『灯里さん、照明をつけてください』
灯里は動けなかった。
『暗くすると、そちらからも見えてしまうので』
背後で、クローゼットの戸がゆっくり開いた。