鏡は午後を裏返す
野崎朔平が書斎で撲殺された時刻は、午後三時十五分――捜査本部はそう結論づけた。
住み込み家政婦の久米井朋子が、その瞬間を見ていたからだ。
吹雪で停電した日、朋子は窓のない地下洗濯室にこもっていた。作業を終え、書斎前を通ったとき、半開きの扉の奥で、黒い人影が文鎮を振り下ろした。朔平は机へ崩れ、人影はテラスから逃げた。
「時計は三時十五分でした。長い針が三、短い針も三の少し先に」
朋子は近眼で、眼鏡を地下に置き忘れていた。それでも大時計の針なら見間違えないと言った。
容疑者は甥の島名廉だった。朔平はその朝、遺産を寄付すると宣言し、廉を激怒させている。
だが廉には鉄壁のアリバイがあった。三時から四時まで、市民会館で二百人を前に講演していたのだ。
「叔父を憎みはした。でも、体を二つにはできませんよ」
廉は余裕の笑みを浮かべた。
私は現場写真を机に並べ、朋子が立っていた廊下へ戻った。扉の正面には本棚があり、書斎の時計は直接見えない。見えるのは、窓際の姿見に映った文字盤だけだった。
翌朝、同じ位置へ時計を置き、針を三時十五分に合わせた。
鏡の中では、八時四十五分を指した。
「逆です」と朋子が呟いた。
「あなたが見た三時十五分は、鏡の時刻です。実際の時計は八時四十五分だった」
停電と吹雪で、朋子は地下にいた時間を五時間半も短く思い込んでいた。犯人は彼女が毎日、廊下から鏡越しに時計を見る癖を知っていた。そして三時十五分に完璧なアリバイを作り、八時四十五分に殺した。
その時刻、廉は講演を終えて屋敷へ戻っていた。雪で停止した門のカメラは役に立たなかったが、配車記録には午後八時三十一分の到着が残っていた。彼の手袋の縫い目からは、朔平の血も見つかった。
逮捕状を見せると、廉は初めて時計ではなく、姿見を振り返った。
「鏡が、三時十五分だと証明したはずだ」
「ええ。鏡は嘘をつきません」
私は手錠をかけながら答えた。
「ただ、午後を裏返しただけです」