長持の蓋
絵画修復家の薬袋苑子に持ち込まれたのは、大正九年に描かれた柏葉家の肖像画だった。
夫婦と二人の息子が、黒い長持を囲んでいる。依頼主は黄ばんだニスだけを除き、「構図には触れないでほしい」と念を押した。
作業を始めると、長持の蓋だけ絵具の層が不自然に厚いことが分かった。赤外線撮影では、その下に別の輪郭が浮かんだ。
元の絵では、長持は開いていた。
中に、白い服の少女が座っている。
家族全員が少女を見ず、正面を向いていた。少女だけが縁へ両手をかけ、画家のほうへ身を乗り出している。口は大きく開いていた。
柏葉家の古い系譜を調べると、夫妻には娘が一人いた。十一歳の春に家出し、行方不明。肖像画が完成したのは、その翌日だった。
苑子は額縁を外した。
木枠とキャンバスの隙間から、折り畳まれた紙が出てきた。画家の覚え書きだった。
〈四月六日、令嬢を長持の中へ座らせて下描き〉
〈休憩後、御主人が蓋を閉じる〉
〈令嬢が内側から三度叩く。御主人、構図を変更すると仰せ〉
〈開けるよう申し上げたが、家族全員、聞こえないふりをする〉
〈夕刻には音がやむ〉
〈翌日、蓋を閉じた状態で上塗り。口外せぬことを条件に代金を倍額受領〉
苑子は警察へ相談する前に、依頼主へ確認の電話を入れた。
柏葉は一時間もしないうちに作業場へ来た。露出した少女を見ても、驚かなかった。
「やはり、残っていましたか」
「長持を調べるべきです。今もご本家にあるなら――」
「戦後に焼いたと聞いています。中身ごと」
柏葉は持参した鞄から、当時と同じ成分で調合された黒い絵具を取り出した。
「元どおり、蓋を閉めてください」
「これは修復ではなく、証拠隠しです」
「いいえ。家族肖像画というものは、家族が望んだ姿へ戻す仕事でしょう」
苑子が断ると、柏葉は静かにスマートフォンを指した。
「撮影したデータも、覚え書きも、すべて一緒に納品してください」
その右手には、肖像画の父親と同じ印章指輪があった。
柏葉は作業場の内鍵を掛けた。
「前の修復家は、蓋を開けようとしました。あなたは賢い方だと信じています」
キャンバスの長持から、乾いた音が三度した。