門が忘れるまで
破城槌が三度目の唸りを上げ、外門の鉄板が人の胸ほど内側へ膨らんだ。
門守アゼリナは、閂に刻まれた口へ指を差し入れた。石の歯が血を味わい、眠っていた門が目を開く。
この門は、誰かに愛されている呼び名を一つ食べるたび、一尺だけ閉じる。食われた呼び名は、声からも記録からも、その名で呼んだ人の記憶からも消える。
「アゼ」
幼いころ兄トルクスだけが使った名を与える。門が一尺戻り、槌の先を噛んだ。
隣で弩を引いていたトルクスが振り向く。
「今、何か呼んだか?」
アゼリナは首を振った。胸の奥に、夏の川辺でその呼び名を投げ合った温度だけが残っている。誰とだったかは、もう片方の記憶から消えた。
槌が再び打ち込まれた。蝶番が裂ける。
彼女は兵籍にある姓を食わせた。書記が抱えていた名簿から一行の後半が白くなり、同僚たちの目から長年の敬礼の意味が抜け落ちる。昨日まで同じ皿を囲んだ兵が、彼女へ初対面の敬語で退避を勧めた。笑い方まで他人へ向けるものだった。門はさらに閉じたが、刃ほどの隙間から敵兵の指が伸びてきた。
残るのは、母が死に際まで呼び続けた本当の名だけだった。
「やめろ」とトルクスが言った。「それを渡したら、おまえを何と呼べばいい」
答える代わりに、アゼリナは石の口へ額を寄せた。
「アゼリナ」
門が轟音とともに閉じ、破城槌の頭を砕いた。外から上がった悲鳴は、厚い鉄の向こうで途切れる。閂の魔法が走り、朝まで二度と開かない。
守兵たちは勝鬨を上げた。
トルクスは血だらけの彼女を抱き起こしたが、その顔には礼儀正しい困惑しかなかった。
「門守殿、助かった。……あなたは、どこの隊の人だ?」
彼女は答えようとした。けれど舌の上には、自分を指す音が一つもなかった。胸当ての名札は磨いたように無地で、手首の家紋もただの傷へ変わっている。
閉じた門の中央にだけ、新しい文字が浮かんでいた。
《この門を閉じた者――》
その後には、誰にも読めない空白が一つ、深く刻まれていた。