閉店まで、あと七十二時間

仮想都市オルガン通りのパン屋には、朝が一日に二度来る。夜勤の利用者がログインする時刻にも、町の時計が小麦色の朝焼けを映すからだ。

玻名城塔子は、その二度目の朝にだけ店を開いた。現実の肉体を病気で失い、意識をこの世界へ移してから十二年。客の大半は遊びに来る生身の人間だったが、最近は住民AIの方が多かった。

ある朝、空に黒い帯が現れた。

《本サービスは七十二時間後に終了します》

客たちは返金窓口へ殺到し、住民たちは意味も分からず空を見上げた。塔子だけは、閉店という言葉を知っていた。現実の会社が倒産し、別サーバーへの移住枠は登録者一万人に対して百人分しかない。

塔子は移住申請書を開いた。持ち出せるのは人格と基礎記憶だけで、店も、レシピも、パンを待つ客の顔も対象外だった。審査欄には「新環境で有用な技能」を書けとある。塔子は製パンと入力して消した。材料の匂いまで規格化された新世界で、同じパンを焼いても、それはこの店の朝ではない。

通りでは住民たちが荷造りをしていた。持ち出せない家具を抱きしめる者、空へ向かって運営を罵る者、何も知らない子どもへ旅行だと説明する者。塔子は、自分だけが十二年前に一度死んでいることを思った。二度目なら慣れているはずなのに、今度は失うものの名前を知りすぎていた。

常連の配達少年が尋ねた。

「七十二時間後も、パンは焼けますか」

塔子は答えられなかった。代わりに倉庫を開け、保存していた最高級の小麦データを全部出した。移住審査に使う資産評価は下がる。それでも、最後の三日間、町中へ無料でパンを配った。

終了一時間前、移住当選の通知が届いた。塔子は承諾画面を閉じ、配達少年に店の鍵を渡した。

「鍵なんて、明日には消えます」

「だから今日、店主になれるの」

最後の朝、通りには焼きたての匂いが満ちた。空が一枚ずつ暗くなり、客も建物も輪郭を失った。少年は初めて焼いた焦げたパンを差し出した。

塔子はそれをかじり、十二年ぶりに、死ぬことが怖いと思った。同時に、怖がれるほどここで生きたのだとも思った。

暗闇の直前、彼女は店の看板を裏返した。

《閉店》ではなく、《完売》と書いてあった。