閉店後のテスター

閉店を知らせる弦楽器の音が流れると、海老沢乃絵は胸の名札を外した。退職日は来週なのに、外す練習でもするような手つきだった。

「三年も覚えたのに、もったいない」

砥上朱夏は売上表を締めながら言った。百貨店の化粧品売場で、朱夏は今月も一位だった。決められた言葉の中から客に合うものを選ぶのが接客だと思っている。乃絵は、決められた言葉に嘘が混じった時点で接客ではなくなると言う。

二人はその違いを、休憩室で何度も平行線のまま畳んできた。

売場の照明を落とす前、乃絵が保湿クリームの棚で立ち止まった。店長の字で貼られた小さなシールに、「敏感肌にも絶対安心」とある。メーカーの資料に「すべての方に刺激が起きないわけではありません」とあることを、二人とも知っていた。

「明日、相談してからにしたら」

「明日も貼ってある」

「あなたは来週までいる」

「辞める人が剥がしたら、腹いせに見える」

乃絵は爪をシールの端にかけたまま、手を止めた。

朱夏は脚立を持ってきた。乃絵が見上げる。

「上の段、届かないでしょ」

朱夏は棚を押さえ、乃絵は一枚ずつ剥がした。途中から役割が入れ替わった。剥がしたシールは返品用の透明袋へ入れ、朱夏が商品表示の訂正記録を開く。理由欄には、店長の指示とも、乃絵の退職とも書かなかった。ただ「承認のない効能表現」と入力した。

確認者の欄に朱夏が署名すると、乃絵も作業者の欄へ名前を書いた。

「残るなら、こういうの全部拾うの?」

「全部は無理」

「私は、それが嫌だった」

「私は、全部じゃなくても拾う」

理解した顔は、どちらもしなかった。

人事へ退職書類を出しに行く直前、乃絵は唇に色がないことに気づいた。朱夏は自分のポーチから、仕事では使わない深い赤の口紅を出した。

「返さなくていい。テスターじゃないから」

乃絵が塗り終えるまで、朱夏は剥がしたシールの袋を持っていた。乃絵は朱夏の売上ファイルを抱えた。二人は片手ずつふさがったまま、店長の机と人事課がある同じ階へ向かった。