隣室ではありません

【雁坂廉平・任意聴取記録】

「紫竹さんが亡くなった夜のことを、もう一度お願いします」

 雁坂廉平は、向かいに座る刑事へ何度もうなずいた。

「十時半ごろまで、いつもの曲が聞こえていました。電子ピアノで『エリーゼのために』を弾いていたんです。三小節目で必ず一度つまずく。あの夜も同じでした」

 隣の六〇七号室に住む紫竹恵那は、午後十一時すぎ、居間で死亡しているのを発見された。首には細いコードの痕があり、死亡推定時刻は九時から十時の間だった。

「ほかに聞こえた音は?」

「椅子を引く音と、薬缶が鳴る音です。十時四十分くらいでした。だから、その時刻には生きていたはずです」

「壁越しに、そこまで分かりますか」

「古いアパートですから。壁が薄いんです。紫竹さんが咳をしたのも、ヘッドホンを外して机に置いた音も聞こえました」

 刑事は調書を書く手を止めた。

「ヘッドホンを外した、と?」

「音が少し大きくなったので」

 雁坂はすぐに答えた。

 翌日、警察は雁坂を現場検証へ立ち会わせた。

 六〇八号室の居間で、刑事が壁を指す。

「この向こうが六〇七号室ですね」

「ええ。いつもここから聞こえます」

 壁紙を叩くと、硬い金属音がした。

 管理会社から取り寄せた図面が広げられる。

 六〇七号室と六〇八号室の間には、エレベーターの昇降路と配管室がある。二つの部屋は一辺も接していない。

「廊下から聞いたのかもしれません」

「では、三小節目の間違いまで?」

 刑事は六〇七号室から押収した電子ピアノの写真を見せた。

 集合住宅用の消音型で、内蔵スピーカーは故障していた。演奏時には必ずヘッドホンが必要で、外へ音は出ない。

 もう一枚の写真には、台所の電気ケトルが写っていた。

 沸騰しても音は鳴らない型だった。

 最後の写真は、遺体のそばに落ちたヘッドホンだった。コードは切り取られ、見つかっていない。

「紫竹さんがヘッドホンを外したことを、なぜ知っているんですか」

 雁坂は黙った。

 刑事は金属音のする壁へ手を置いた。

「雁坂さん。ここは、隣室ではありません」