雨の地図に丸をつける

 久宝澄人がその町へ越してきて、まだ六日目だった。

 雨の夕方、コンビニの軒下で、赤い傘を差した老婦人が濡れた紙を何枚も抱えていた。紙には、垂れ耳の雑種犬と〈柚兵衛を探しています〉の文字。

「手伝いましょうか」

 声をかけたものの、澄人は町の道をほとんど知らない。

「知らないからこそ、見落とさない道もあるかもね」

 老婦人はそう言って、少し笑った。

 コンビニの店員がレジ用紙の裏へ町の地図を描いた。クリーニング店の主人は「昼に青果店の方へ歩く犬を見た」と言い、下校途中の小学生たちは三つの班に分かれた。澄人はスマートフォンに地図を写し、見た場所へ赤い丸をつけていった。

 公園の藤棚、郵便局の裏、閉まった駄菓子屋。雨に濡れた町は、昼とは違う匂いがした。土、傘の布、どこかの家の煮物。

 青果店の先で、豆腐屋の若主人が顔を出した。

「犬なら、さっき揚げの匂いを嗅いでたよ。雷が鳴ったら裏へ逃げた」

 店の裏手には古い物置があった。澄人がしゃがみ、「柚兵衛」と呼ぶと、段ボールの陰から鼻先が出た。

 犬は泥だらけで、首輪の金具に枯葉をぶら下げていた。けれど老婦人の姿を見つけると、尾が床を何度も打った。

「遠くへ行ったと思った」

 老婦人は犬を抱かず、まず濡れた背をタオルで拭いた。柚兵衛は安心したように、その手へ顎を預けた。

 捜索に加わった人たちは、豆腐屋の軒下へ自然と集まった。若主人が売り物にならない小さな油揚げを炙り、皆へ一切れずつ配る。醤油を落とすと、雨の匂いの中へ香ばしい湯気が立った。

 老婦人は澄人へ、乾いた地図を一枚渡した。

「今度は、迷わないために使って」

 赤い丸だらけの町は、もう知らない場所には見えなかった。

 帰り道、柚兵衛が一度だけ振り返った。澄人が手を上げると、濡れた尾が揺れる。

 翌朝、玄関の前に生姜のきいた甘酒が置かれていた。湯気の向こうに、豆腐屋、青果店、公園へ続く道が思い浮かぶ。澄人は地図へ新しい丸を一つつけた。ここが、自分の家だった。