雨の日の十八番
廃校になる校舎で、元教師は古い出席簿を整理していた。
三十年前に担任したクラスは三十六人。ところが名簿の十八番だけ、名前が剥がれたように白い。
外で雨が降り始め、窓から吹き込んだ雫が頁へ落ちた。
白かった欄に、薄い文字が浮かんだ。
知らない名前だった。
雨に濡れている間だけ、忘れられた人の名前が記録へ戻るらしい。
元教師は、その名を声に出した。
胸の奥で、机の軋む音がした。
窓際の席。絵ばかり描く子。給食の牛乳を飲めず、いつも最後まで残っていた。
顔は思い出せない。けれど、自分が何度も「早くしなさい」と言った声だけは戻った。
同窓生へ電話した。
誰もその名を知らない。
卒業写真にも十八番の席だけ、不自然な隙間がある。
雨がやむと、出席簿の文字は消えた。
記憶も薄れた。
元教師は慌てて掌へ名前を書いたが、翌朝には意味のない線に見えた。
次の雨を待った。
名前が浮かぶたび、少しずつ住所や保護者欄を読み取った。
古い町名を地図で探し、何度も道を間違えた。
晴れると目的を忘れるため、傘へ行き先を書きつけた。
梅雨の終わり、商店街の端に小さな額縁店を見つけた。
主人は元教師より少し若く、牛乳瓶を入れた花器を窓辺へ並べていた。
名前を呼ぶと、主人の手が止まった。
「先生」
その一言で、元教師は顔を思い出した。
窓際で、消しゴムの屑を丸めていた子。
「なぜ、みんな忘れている」
主人は肩をすくめた。
「卒業の日からです。私にも分かりません」
「つらくなかったか」
「最初は。でも、誰かに覚えてもらうために生きるのも疲れました」
元教師は謝った。
忘れたことではなく、覚えていた頃にも、この子が何を描いていたか尋ねなかったことを。
主人は店の奥から一枚の絵を出した。
雨の教室。空いた十八番の席へ、教師が傘を差し出している。
「実際は、傘なんて貸してくれませんでした」
「そうだったな」
「だから描きました」
二人で笑った。
雨がやむと、元教師はまた主人の名を忘れた。
それでも額縁店への道だけは、足が覚えていた。
晴れの日にも店へ入り、
「前に来ましたか」
と尋ねる。
主人は毎回、同じ茶を出した。
「ええ。雨の日から、ずっと」
覚えることが奇跡なのではなかった。
忘れるたび、もう一度会いに来る人がいることが、その店に残った小さな奇跡だった。