雨を飲む鞘

夜明け前、野宮城の東門で、弓削伊十郎は黒漆の鞘を雨に晒していた。

鞘には、主家が滅びた日に受けた槍傷が縦に走っている。中の朴木は水を吸い、刀をきつく抱いていた。

「抜けぬ刀で来たか」

向かいの御影九馬が笑った。九馬も浪人だった。城方が雇う道案内は一人だけ。夜明けの谷を知る者が先陣を導く。負けた方には銭も朝飯も出ない。

城方は今夜、敵の背後へ回る細道を使う。伊十郎も九馬も、その道を十年前に測ったことがあった。だが地滑りで道幅は半分になり、百人を通せば最後の十人は朝日に晒される。案内役は先頭に立つのではない。誰を最後に捨てるか決める役だった。

検分役が濡れた床几に座り、銅鑼の撥を上げた。

九馬は伊十郎の鞘の裂け目を見ていた。昔、同じ旗の下で戦った男だ。雨の日には鯉口が締まり、伊十郎の抜き打ちが半呼吸遅れることを知っている。九馬はかつて、その半呼吸を庇って頬に矢傷を受けた。今は同じ癖へ刃を入れようとしている。恩も恨みも、主家が潰れれば同じ値段で売られた。九馬の頬傷は今も雨で疼く。伊十郎は礼を言わず、九馬も返せとは言わなかった。今日、刃だけが勘定を合わせる。東門の上では、夜襲隊の若い兵が二人を見下ろしていた。どちらに命を預けるか、まだ名前も知らない顔だった。

だから伊十郎は、知っていることまで使わせるつもりだった。

銅鑼が鳴った。

伊十郎は右手で柄を引いた。刃は指二本ぶん出て止まる。九馬の目が細くなり、一足で間を潰した。狙いは首ではない。抜けぬ右手首だ。生かして恥を売る斬り方だった。

伊十郎は柄から手を離した。

空いた右手で九馬の袖を掴み、左手の鞘を下から跳ね上げる。濡れた鞘口が九馬の手首を打ち、刀が石畳を滑った。伊十郎は抜けぬままの刀を横にし、その鞘先を九馬の喉へ押し当てた。

雨粒が二人の鼻先から同時に落ちた。

「刀は抜くものだろう」

九馬が言った。

「主がいる侍ならな」

伊十郎は答えた。浪人の道具は、役に立った形が正しい。

検分役は九馬の刀を拾わなかった。伊十郎の割れた鞘を一度見てから、東門の櫓へ手を上げた。

谷の闇に向け、先陣の黒旗が上がった。