雨傘を預けた会長

海沿いの老舗ホテルでベル係を始めて三日目、私は一本の古い傘を預かった。持ち主は灰色のコートを着た小柄な女性だった。榊原澪乃と名乗り、予約はしていないという。

「ロビーを少し見せてください」

彼女がそう頼むと、宿泊部長は名簿を一瞥して鼻で笑った。

「見学なら旅行代理店を通してください。ここは休憩所ではありません」

女性は怒らず、玄関の段差、濡れた床、車椅子用の呼び鈴を順に眺めた。私は規則にないと知りつつ、温かいタオルを差し出した。

「ありがとう。あなたは、いつからここに?」

「三日目です」

「では、まだホテルの悪い癖に染まっていないのね」

宿泊部長が近づき、私からタオルを奪った。

その朝、ホテルでは海外企業の歓迎会が予定され、宿泊部長は赤い絨毯の幅ばかり気にしていた。女性が玄関脇の点字案内に触れ、文字が摩耗していると言うと、「使う客はほとんどいない」と答えた。さらに、雨水で滑った子どもへ私が手を貸しただけで、持ち場を離れるなと叱った。女性はその一つ一つを、時刻まで添えて小さな紙へ記した。

私は創業者の肖像の下にある社是を思い出した。「最初に迎えるのは、荷物ではなく人」。宿泊部長は毎朝それを唱和させるのに、目の前の女性には椅子一つ勧めなかった。

女性は社是の文字を指でなぞり、私にだけ聞こえる声で「言葉は、使わなければ飾りね」と言った。

「勝手なサービスは困る。君も研修からやり直しだ」

女性は傘の預かり札を指で挟み、ロビー中央の創業者の肖像を見上げた。若いころの横顔が、目の前の彼女によく似ている気がした。

やがて正面玄関に黒い車が三台止まった。総支配人、取締役、法務部長が雨の中を走ってくる。宿泊部長は急に背筋を伸ばし、誰を迎えるのかと入口を振り返った。

しかし総支配人は彼を通り過ぎ、灰色のコートの前で深く頭を下げた。

「榊原会長、全館抜き打ち監査の準備が整いました」

女性は預かり札を私に返し、静かに言った。

「最初の評価対象は、今の五分間にしましょう」