雨曜日の返信
駅裏の赤い郵便箱には、雨が降っている間だけ手紙を入れられた。
宛名を「十年前の私へ」と書けば、次の雨の日に返事が届く。
母の施設入所を翌日に控え、娘は十年前の自分へ書いた。
「家を出る夜、『二度と帰らない』と言わないで。母はその言葉を十年覚えています」
十年前、娘は進学を反対され、母と激しく争った。
町を出てから連絡は減り、父の死後も帰省は短かった。今では母の記憶が薄れ、娘の顔を妹と間違える。それでも「二度と帰らないと言った子」という部分だけ残っていた。
雨の郵便箱へ手紙を入れた。
過去が変われば、母との十年も変わるかもしれない。
そんな期待を、娘は否定できなかった。
次の雨は、入所から一週間後だった。
郵便箱には、濡れていない封筒が一通入っている。
十七歳の自分の字だった。
「遅い。今日、もう言った。
でも、明日なら帰って謝れる。
未来の私は、明日も帰らないの?」
娘は立ち尽くした。
過去の自分は、こちらの手紙を受け取っても言葉を消せなかった。
できたのは、次の日の選択を変えることだけ。
そして現在の自分にも、同じ明日が毎日あった。
施設へ向かった。
母は窓辺で知らない歌を口ずさんでいる。
娘を見ると、
「どちらさま」
と尋ねた。
「二度と帰らないって言った娘」
自分から答えると、母は顔をしかめた。
「そんなひどい子、知らない」
胸が痛み、少し笑った。
「じゃあ、今日から知って」
娘は椅子へ座り、町を出たあとの話をした。
仕事で失敗したこと。
結婚しなかったこと。
父の葬儀で母の手を握れなかったこと。
母は途中で眠り、翌週には話を忘れた。
雨が降るたび、娘は十年前の自分から短い返事を受け取った。
「今日は母の皿を洗った」
「謝ったら、母も謝った。でもまた喧嘩した」
「家は好きじゃない。帰る場所ではある」
過去が大きく変わった様子はなかった。
現在の母も、娘を覚える日と忘れる日を繰り返した。
最後に届いた手紙には、
「未来の私へ。帰るのは、一度で済むことじゃない」
とあった。
娘は返信を書かなかった。
雨の郵便箱へ入れる代わりに、施設の予定表へ次の面会日を書いた。
母が覚えていなくても、帰る日は一度ずつ作れる。
十年前の自分を救うより、今日の自分が明日も扉を開ける方が、少し確かな奇跡だった。