雨樋の白猫
古い下宿を閉めると決めた夜、雨樋から白い猫が落ちてきた。
正確には、落ちてきたのは白い髪の若い女だった。濡れた髪に、片方だけ尖った耳が混じっている。
「昔、ここで拾われました」
三十年前、下宿の女主人は同じ雨樋に挟まった子猫を助けた。乾いたタオルで包み、台所の隅へ置いた。猫は数日後に消え、そのまま忘れていた。
女は、雨水があの雨樋を流れている間だけ人の姿でいられるという。
女主人は最後の客として部屋へ入れ、熱い牛乳を出した。
「恩返しなら、引っ越しを手伝って」
「猫に重い物を頼む人は嫌われます」
「人の姿でしょう」
「見た目だけです」
役に立たない客だった。
女は段ボールへ入ったり、古いカーテンへ爪を立てたりした。けれど、女主人が捨てようとした宿帳だけは、箱の外へ何度も押し戻した。
下宿には、夫を亡くした人、家出した学生、離婚したばかりの親子が一時暮らした。女主人は、皆を送り出すたび、
「ここは帰る家じゃない」
と言った。長く頼られれば、自分が寂しくなるからだ。
雨が強くなった頃、玄関が鳴った。
扉の外に、十年会っていない娘が立っていた。傍らには眠そうな孫と、大きな鞄。
娘は夫と別れたらしい。
「一晩だけ泊めて」
女主人は反射的に、
「ホテルを取れば」
と言いかけた。
白い女が足首へ頭を押しつけた。猫だった頃と同じ強さだった。
「あの日、あなたは私へ、いつ出ていくか聞かなかった」
「猫だったから」
「濡れている者には、まずタオルでしょう」
女主人は娘の顔を見た。
助けてと言えず、断られる前に「一晩だけ」と決めた顔だった。
「入って。話は乾いてから」
三人分のタオルを出し、台所へ牛乳を温めに行く。戻ると、白い女は窓辺で透け始めていた。
雨が細くなり、雨樋の音も途切れている。
「恩返しは、これだけ?」
「泊めてもらった場所を、もう一度泊まれる場所に戻しました」
女は白い猫へ変わり、窓から雨の屋根へ跳んだ。
下宿は閉めた。
ただし一階の一室だけ、娘親子が次の家を見つけるまで残した。
宿帳も捨てず、最後の頁へ三人で日付を書く。
その夜から、女主人は「一晩だけ」を期限ではなく、話を始めるための言葉として聞くようになった。