雪解けの赤煮込み
国境食堂《ひとさじ》を開けて三日目、リタは鍋の底が見えるほど暇だった。
「香辛料なんかで腹が満たせるか」
昨日、通りすがりの兵士に笑われた言葉が、まだ耳に残っている。看板を外すには早い。けれど、仕込んだ赤い煮込みは今夜売れなければ自分で食べ切るしかなかった。
吹雪の向こうで、初めて扉の鈴が鳴った。入ってきたのは北方騎士ガイゼル。兜の隙間から白い息を吐き、右腕を胸に抱えている。銀の鎧には霜ではなく、青い氷が根のように食い込んでいた。扉を閉めるだけで膝をつき、床へ氷片を散らす。
「食事ではない。火を貸せ」
北の魔獣に噛まれたのだという。魔氷は外から炙るほど肉へ潜る。日没までに指が動かなければ、腕を落とすしかない。暖炉へ近づいた跡なのだろう、籠手の表面だけが黒く焦げ、その下の青はむしろ濃かった。
リタは火掻き棒ではなく、匙を取った。赤い煮込みを深皿によそう。火椒、角兎の肉、潰した陽トマト。火椒は舌を焼かず、体の冷えた場所へ熱を運ぶ。旅商人の母から教わった、寒村の家庭料理だった。
「食える手で、食ってください」
「料理で魔氷が解けるものか」
「外から駄目なら、中からです」
ガイゼルは左手で匙を握った。一口目で眉をしかめる。辛さではない。舌に触れた熱が、喉から胸へ、胸から凍った右腕へ細い道を作っていく。二口目、青い氷に糸ほどの亀裂が走った。三口目には、鍋で煮えた肉がほろりと崩れるのと同時に、鎧の継ぎ目から氷片が卓上へ落ちた。
食堂に、ぱきん、ぱきん、と冬の割れる音が続く。湯気に混じったトマトの酸味が、凍えていた部屋まで明るくした。
半分を越えたところで、ガイゼルの右手がわずかに震えた。彼は食べるのを止めず、最後の汁まで皿を傾ける。やがて右手を開き、一本ずつ確かめるように指を曲げた。最後に拳を握ると、鎧の下で血の巡る赤みが戻った。
「……剣が持てる」
その声は、勝ち戦の報告より静かだった。
「いくらだ」
「銅貨六枚です」
彼は銀貨を一枚置いた。釣りを渡そうとしたリタの手を、もう自由になった右手で押し戻す。
「残りは明日の分だ。巡回隊は十二人いる。全員、指を失わず帰らせたい」
扉が閉まり、吹雪が一瞬だけ舞い込んだ。リタが銀貨を握り、空になった鍋を見下ろす。昨日までただ赤すぎるだけだった煮込みが、今は店の最初の看板料理に見えた。
新しい鍋へ火椒を落とした、そのとき。
雪を払う音とともに、二度目の鈴が鳴った。