零を測れない水晶
王城の礼拝堂へ落ちたとき、真壁蓮司の右手には、コンビニで買ったままの缶コーヒーがあった。
金糸の法衣を着た鑑定官が、水晶柱へ彼の手を押しつける。青い数字が一瞬だけ浮かび、すぐに消えた。
「魔力ゼロ。こんな外れを勇者列に並べるとは、召喚陣も老いたものだ」
列の後ろで、同時に呼ばれた者たちが息を漏らした。剣聖、賢者、聖女。彼らの水晶は眩しい称号で満たされている。蓮司の欄だけが、雨に濡れたレシートのように白かった。
だが蓮司には、白い欄のさらに奥が見えていた。
《上限解除》
対象ひとつの限界を、一度だけ消す。
ゼロは空っぽではない。厚い蓋で押さえ込まれた海のように、数字の向こうで何かがうねっていた。
鑑定官は衛兵へ顎をしゃくった。
「地下の雑役区へ。食費だけでも惜しいが、元の世界へ戻す術はない」
二人の衛兵が腕を取る。蓮司は抵抗せず、もう一度だけ水晶柱を見た。柱の根元には、測定上限九万九千九百九十九と刻まれている。
「一つ、試していいですか」
「時間の無駄だ」
「では、すぐ終わります」
蓮司は水晶へ触れ、自分の魔力の上限を消した。
それだけだった。
最初に現れたのは、ゼロだった。次に一。十。百。数字は滝のように桁を増やし、柱の内部で青い光が白へ変わる。九万九千九百九十九を越えた瞬間、礼拝堂じゅうの魔法灯が消えた。
水晶の表面に、見たことのない記号が一つ浮かぶ。
《∞》
ひびは音もなく走った。王家が三百年使った鑑定柱は粉々にならず、細かな光の砂へほどけ、蓮司の靴の周囲に円を描いて沈んだ。天井画の神々まで、光を避けるように色を失う。
衛兵の指が彼の腕から離れた。
最上段で退屈そうに頬杖をついていた老王が、ゆっくり立ち上がる。鑑定官も、剣聖も、聖女も、誰一人として声を出せない。
蓮司はぬるくなった缶コーヒーを持ち直した。
先ほどまで出口を示していた全員の視線が、今は彼の次の言葉を待っていた。