零時二十三分の焦がしバター
水科朔也が仕事用の画面を閉じたとき、時計は零時二十三分を指していた。
今日も一日、他人の文章の誤字を直した。主語と述語を結び、余分な句読点を消し、曖昧な言い回しへ赤を入れた。けれど自分の夕食だけは、ずっと「あとで」のまま放置していた。
机の端で、黒猫のふきんがキーボードへ前足を置く。
「保存したから、もう押さなくていい」
ふきんは返事の代わりに欠伸をした。
冷蔵庫には、昨日のごはんが茶碗一杯。卵が一個。葱が半分。健康的な献立を考えるには遅すぎて、朔也はフライパンへバターを大きく落とした。
じゅわ、と黄色い塊がほどける。少し茶色くなるまで待ち、冷えたごはんを入れた。醤油を鍋肌へ回すと、焦げた乳脂肪と醤油の香りが狭い台所を満たした。最後に卵を割り、半熟の黄身をごはんの中央へ滑らせる。
「深夜にこれは、校正すると『不適切』だな」
ふきんが足元で鳴いた。
「異議あり、か」
皿を机へ運び、黄身を崩す。焦げた醤油の塩気が、バターと卵で丸くなる。葱の辛さだけが小さく目を覚ましていた。
今日、担当者から戻ってきたメールには、修正箇所の追加が二十七件あった。最後の一行は「細かくてすみません」。朔也は笑顔の記号を返しながら、心の中で二十七回ため息をついた。
「細かいのは、俺も同じか」
ふきんは椅子へ飛び乗り、皿ではなく朔也の手首へ額を押しつけた。
食べ終えたあと、朔也は明日の予定表へ「朝食」と入力した。開始時刻も締切も書かず、ただ一行だけ置いた。
洗い物は水につけ、今夜はそれで合格にする。電気を消すと、ふきんが先に布団の中央を取った。
部屋にはまだ焦がしバターの甘い匂いが残っていた。自分の一日にも赤字を入れすぎた、と気づいた朔也は、猫の背を避けて布団へ潜り込んだ。
ふきんの喉が暗闇で低く鳴り、その振動が枕まで伝わった。朔也は明日の原稿にも直すべき箇所があると知っていたが、今は猫の丸い背だけを読み、そこには一つも誤りがないことにした。