零時十二分の玉ねぎ
矢萩未景が部屋の鍵を回したのは、零時十二分だった。
玄関には、同居人の引っ越し用段ボールが六箱。壁から外された写真の四角い跡だけが、部屋にまだ二人分の時間があるように見せていた。
キッチンの小鍋には、玉ねぎのスープが残っていた。蓋を取ると、甘く煮えた香りがゆっくり立つ。テーブルには深い青の器が一つだけ。いつもは色違いの白い器が向かいにあったが、それは新聞紙に包まれ、段ボールの口から縁だけをのぞかせていた。
未景は転職の内定通知を鞄に入れたままだった。勤務地は、この部屋から電車で二時間。受けると決めたのに、先に出ていく同居人へ話せずにいる。置いていかれるのが寂しいと言った直後に、自分もここを離れるなんて、仕返しのように聞こえそうだった。
二人で更新したばかりの賃貸契約も、共同で買った掃除機も、どちらが持つか決めていない。話せば現実になることばかりで、未景は内定通知を開くたび、画面を伏せてきた。
昼休みに「おめでとう」とだけ書いた報告文を作ったが、送れなかった。同居人の結婚を祝う言葉と、自分の転職を告げる言葉が、同じ画面に並ぶと競争のように見えた。
鍋の中身を器へ移すと、ちょうど一杯半あった。
半端だね、と同居人なら笑う。けれど未景は一杯だけをよそい、残りを鍋に置いた。両手で器を包むと、熱が指の節から胸の奥へ移ってくる。玉ねぎは形を失うほど柔らかく、噛まなくても舌の上でほどけた。
段ボールの向こうで、ドライヤーが止まった。
未景は急いで食べなかった。スプーンを運ぶたび、明日から減っていくものを数える癖が薄れていった。最後まで飲み切り、空いた器を流しへ運ぶ。それから小鍋の半杯へ水を少し足し、冷蔵庫にあった玉ねぎを一個だけ刻んだ。
「まだ起きてたの」
背後から声がした。
未景は振り返らず、鍋に蓋をした。長い説明の代わりに、内定通知を冷蔵庫へ磁石で留め、その下へ付箋を貼った。
――明日の朝、これに足して、もう一度だけ二人分にしよう。
同居人は何も言わなかった。ただ段ボールから白い器を取り出し、青い器の隣に置いた。
未景が残した半杯は、別れを先延ばしにするためではなく、別々の場所へ行く二人が、同じ朝から出発するための分になった。