青いランプの冷蔵庫
広告会社の冷蔵庫から、小田切紬の弁当が消えた。
朝五時に炊いた豆ごはんと、母から教わったばかりの甘い卵焼き。蓋に白い輪ゴムを掛け、いつもの上段に置いたはずだった。
母とは春から小さな行き違いが続き、料理の話をできたのは昨夜が久しぶりだった。電話越しに聞いた分量を、紬は付箋へ何度も書き直した。だから今日の弁当は、昼食以上のものだった。
昼前に冷蔵庫を開けたのは二人いる。新入社員の羽鳥と、総務の宇野だ。羽鳥はプリンを探し、宇野は「点検です」と言っていた。さらに仁科課長も、会議用の水を取りに来たらしい。
「私じゃないですよ。今日はコンビニです」
羽鳥はレシートまで見せた。
仁科は会議室から動けない。
残る宇野は、電話を片手に廊下を走り回っていた。
紬は冷蔵庫の前にしゃがんだ。青い庫内灯が、点いては消える。床には細い水の筋。足元に落ちていたのは、弁当に掛けた白い輪ゴムではなく、配送用保冷バッグの青い留め具だった。
一階の宅配ロッカーへ行くと、冷蔵区画のランプが一つだけ点いていた。総務のカードをかざすと、中から紬の弁当が出てきた。白い輪ゴムもそのままだ。
「冷蔵庫、朝から壊れてました」
背後で宇野が息を切らした。
「食品は全部移したんですか」
「会議の水と、これだけです。ほかは入っていなかったので」
それなら一言くれればよかったのに、と言いかけて、紬は黙った。先週、母の通院で早退を願い出たとき、宇野は忙しさのあまり「私用は計画的に」と冷たく言った。その翌日から、彼は紬と目を合わせなくなっていた。
宇野は保冷バッグの青い留め具を拾い、指で曲げた。
「昨日、電話で話していたでしょう。やっとお母さまに教わった味だって。傷ませたら、謝る機会がまた一つ減る気がして」
謝る機会、という言葉だけが小さかった。
紬は給湯室で弁当を開いた。豆ごはんは冷えすぎて少し固く、卵焼きの角もきゅっと締まっている。宇野が去りかけたので、一切れを蓋に載せた。
「点検のお礼です。甘すぎるかもしれませんけど」
宇野は一度だけ頭を下げた。
紬も卵焼きを口に入れた。冷たいのに、昨日より少し甘かった。