青い封筒は二度戻る
野依沙月のもとへ、二十六年前の手紙が返ってきた。
封筒は青く褪せ、宛名の「国府田直文様」だけが、十七歳の筆圧を残していた。海沿いの旧郵便局を解体した際、仕分け棚の裏から見つかったという。切手の上には消印がない。出発すらできなかった手紙だった。
直文は高校卒業後、父親の転勤で町を離れた。駅で別れるとき、彼は言った。
「戻ってきたら、まだ俺のこと好きでいてくれる?」
沙月は人目が恥ずかしくて答えられず、「手紙を書く」とだけ約束した。その夜、便箋を五枚も失敗し、最後には一行しか残らなかった。
〈待っています。何年でも〉
返事は来なかった。夏が終わり、年が変わり、沙月は待つことをやめたつもりになった。直文もまた、何も言わずに遠くなった。
封筒と一緒に、郵便局から調査結果が添えられていた。転居先はすでになく、現在の住所は確認できない、とある。
名前を検索すると、地方紙の記事が見つかった。直文は別の町で小さな製本所を営み、妻と二人の息子と写真に収まっていた。白髪の混じった彼は、十七歳のころと同じように、笑うと目尻が下がっていた。
沙月は新しい封筒を買った。
古い手紙を入れ、記事に載っていた製本所の住所を書いた。切手も貼った。翌朝、通勤の途中でポストの前に立った。
けれど投函口へ伸ばした手を止めた。
この一行が二十六年前に届いていたら、二人の人生は違っていたかもしれない。だが違っていた人生が、今より幸せだった証拠はない。彼の写真の中には、手紙が届かなかったから生まれた人たちがいた。
沙月は封筒を鞄へ戻した。
その晩、進学で町を出る娘が荷造りをしていた。
「お母さん、向こうで寂しくなったら手紙書くね」
「書いたら、すぐ出しなさい」
「当たり前でしょ」
娘が笑う。沙月も笑った。
青い封筒は、机の一番下の引き出しへしまった。届かなかった言葉は、もう直文への約束ではなかった。
あの頃の自分が、本当に誰かを待てるほど好きだったことを、忘れないための手紙になっていた。