静止する心拍
黒竜の爪が石床を抉り、久世ノアの心拍表示が百八十を越えた。
《心拍同期システム》
現実の心拍数が高いほど、攻撃力が上昇します。
《LOG OUT》
使用条件:心拍数六十以下。
ログアウト不能になった初日から、誰もこの条件を満たせなかった。眠っても数値は七十台で止まり、戦闘になれば百を超える。運営は反応せず、強制切断も効かない。だから皆、竜を倒せば出口が出るという噂に縋った。
「ノア、最大火力だ!」
仲間の叫びに合わせ、ノアは剣を振り上げた。心拍百九十二。刃が白熱し、黒竜の鱗を裂く。だが竜は倒れない。むしろ攻撃力が上がるほど、胸の奥が現実の痛みを訴えた。
視界の端に、装備している古びた護符の説明が揺れている。
《静息の護符》
勇者が剣を置いた場所にのみ、朝は来る。
効果:なし。
攻略掲示板では雰囲気アイテムと笑われていた。ノアもそう思っていた。けれど黒竜は、こちらが攻撃した瞬間にだけ爪を振るっている。怒っているのではない。心拍を上げる行動へ反応している。
ノアは剣を床へ置いた。
「何してる! あと少しだぞ!」
仲間の魔法が飛び、黒竜が咆哮する。ノアは目を閉じ、息を四つ数えて吸い、六つ数えて吐いた。百五十。百二十。九十。
竜の鼻先が胸へ触れる。熱い息。殺されると思った瞬間、護符が淡く光った。黒竜は攻撃せず、その場に伏せる。
七十二。六十八。六十三。
仲間たちも一人ずつ武器を下ろした。戦場から音が消え、最後に残ったのは二十人分の呼吸だけだった。
六十。
灰色だったログアウトボタンが青くなる。ノアが押すと、黒竜の身体が巨大な心電図へ変わった。山のような背は波形、咆哮は警告音。ここは竜の巣ではなく、昏睡した身体の中だったのだ。
一人の弓使いが耐えきれずに矢を放つと、心拍が跳ね、黒竜も同じだけ身を起こした。彼は慌てて弓を置く。六十台へ落ちた者の足元から順に、血のような赤い床が朝焼けの色へ変わっていった。
《隠し条件達成。戦闘用興奮状態を解除しました》
《ログアウト不能措置の正式名称を表示します――生命維持のための覚醒延期》
《心拍安定を確認。現実世界への意識復帰を開始します》