鯖の背に降る塩
山科環が五年通った「みなと」の引き戸を開けると、店主は棚の時計を見てから、壁に立てかけた段ボール箱へ目をやった。
「荷造り、終わったか」
「半分です。だから、逃げてきました」
日曜にはシンガポールへ発つ。三年間の海外赴任は、同期の誰もが羨む辞令だった。環も上司の前では何度も頭を下げた。けれど父には、まだ伝えていない。
東京へ出るとき、家業の魚屋を継がない環に父は「好きにしろ」と言った。それから電話は母を介すようになった。海外へ行くと話せば、また遠くへ逃げるのか、と言われる気がした。
今夜、店に客は環一人だった。最後だからと特別なものを頼む気にはなれず、いつもの鯖の塩焼きを頼んだ。
炭へ脂が落ち、ぱちっと青い火が跳ねた。皮が縮む乾いた音のあと、煙に混じった海の匂いがカウンターまで流れてくる。皿に置かれた鯖は、背に粗い塩を残し、割った身から白い湯気を細く立てていた。
環は腹側から箸を入れた。脂は甘く、塩は思ったより強い。
「向こうでも鯖、食えますかね」
「海は続いてるだろ」
店主はそれだけ言って、炭をならした。
父の店にも、毎朝、鯖が並ぶ。子どものころは父が焼いた切り身の背側をもらった。骨が少なく、冷めにくいからだと、ずっと後で母から聞いた。
環はスマートフォンを出し、明日の予定表に「午前七時 父へ電話」と入れた。赴任を断るつもりはない。父が喜ぶとも思わない。それでも、空港から母に頼んで伝えてもらうのだけはやめようと決めた。
「背のほう、残すなよ」
父はたぶん、赴任先の国名より先に、いつ戻るのかと聞く。環はまだ答えを持っていない。三年後に東京へ戻るのか、現地に残るのか、魚屋の暖簾がそのころも上がっているのかも分からない。だからこそ、都合のいい結末を用意してから話すのではなく、決まっていることだけを伝える。電話のあとで怒鳴られても、沈黙されても、荷造りの残りは自分で終えるつもりだった。
店主に言われ、環は最後の一切れを返した。皮の焦げがさくりと割れ、塩気の奥から熱い脂が舌へ戻ってきた。