黄色いクレヨンに名前を書く
八歳の図工室へ戻った瞬間、奈津は自分の右手が小さくなっていることより、机の上の黄色いクレヨンを見て息を止めた。
先端には、自分が噛んだ小さな歯形がある。
市の絵画展へ出す作品を仕上げる日。前の人生では、この一時間が奈津から絵を奪った。
隣の席の従姉、珠莉が猫なで声で言う。
「交換しよう。そっちのほうが先生に褒められそう」
差し出されたのは、花畑を塗っただけの紙だった。
前の奈津は逆らえず、自分が三日かけて描いた夕焼けの商店街を渡した。珠莉はそれを自作として提出し、代表に選ばれた。珠莉の家には賞状が飾られ、奈津の絵は「従姉の真似」として突き返された。あとから奈津が訴えると、伯母は「負け惜しみ」と笑い、争いを避けたい母まで奈津に謝らせた。その夜、黄色いクレヨンだけが机から消えた。奈津は二度と人前で絵を描けなくなった。
同じ台詞。同じ紙。同じ黄色いクレヨン。
けれど今度の奈津は、クレヨンを握ったまま首を振った。
「交換しない。これは私の絵だから」
珠莉の笑顔が固まる。
「け、けち。じゃあ、貸して」
「それも嫌」
奈津は黄色いクレヨンで夕日の端に小さく自分の名を書いた。さらに、毎日描いていた下絵帳を作品の横へ置く。夕焼けが一日ずつ濃くなる過程も、看板の形を直した跡も、全部そこにあった。
珠莉は作品へ手を伸ばしたが、奈津は紙を胸に抱き、教卓まで歩いた。
「先生。これが完成です。下絵も見てください」
先生は帳面を一枚ずつめくり、最後にクレヨンの歯形を見た。珠莉が慌てて自分の花畑を差し出す。
「私のほうが上手です!」
前の人生なら、先生は困った顔で二枚とも預かった。
だが今回は、奈津の絵の裏へその場で受付印を押した。
放課後、校内放送が鳴る。前の人生で必ず呼ばれたのは珠莉の名だった。
『市展代表作品を発表します』
奈津は黄色いクレヨンを握り直す。
『二年一組、奈津さん。題名は――夕焼けの帰り道』
隣で珠莉が、初めて何も言えずに俯いた。