黄色い傘を開かない朝
午前七時五十八分。横断歩道の手前で、黄色い傘の留め具が外れた。
「お姉ちゃん、青だよ。早く!」
弟の蒼生が、前とまったく同じ声で袖を引く。
小日向紬は息を止めた。雨粒の角度も、パン屋から流れる甘い匂いも、右手で振動したスマートフォンも同じだった。前の人生では、この十七秒後、傘で視界を塞がれた蒼生が飛び出し、坂を滑ってきた配送車に撥ねられた。
運転手は居眠りではなかった。工事業者が雨水ますの鉄板を半端に戻し、後輪を跳ねさせたせいでブレーキ管が裂けたのだ。その事実を知ったのは、弟の葬儀から三か月後だった。だが工事記録は既に消され、泣き崩れた紬の証言を信じる者はいなかった。母は笑わなくなり、黄色い傘だけが玄関に残った。
紬は傘を開かなかった。
「青でも、渡らない」
「え?」
同じ小道具、同じ合図。けれど返事だけを変え、弟のランドセルの肩紐を両手でつかむ。さらに歩道脇の赤い工事用コーンを車道へ蹴り出した。
周囲から非難の声が上がる。
「危ないだろ!」
「何してるの!」
次の瞬間、坂の上から白い配送車が現れた。運転手がハンドルにしがみつき、何度もブレーキを踏んでいる。車はコーンを跳ね飛ばし、それを避けようと切った角度のまま、無人のバス停へ突っ込んだ。
ガラスが砕け、雨の中へ白く散る。
横断歩道を渡っていたはずの場所には、誰もいない。
紬は倒れそうになる膝をこらえた。蒼生が彼女の服に顔を押しつけている。生きている。温かい。うるさいほど泣いている。
「お姉ちゃん、どうして分かったの」
「一度、間に合わなかったから」
通報しようとスマートフォンを開く。前の人生では午前八時ちょうど、母から《蒼生は一緒?》と届き、その一分後には救急隊から着信が入った。
画面の時計が八時を示す。
振動。
紬の指が震えた。表示された母の文面は、知っているものではなかった。
《雨が強いから、二人とも学校を休んで帰っておいで》
蒼生が顔を上げる。
「帰ろう、お姉ちゃん」
前の人生では、二度と聞けなかった言葉だった。