黒板の右下

卒業式の朝、三年二組の黒板は、色とりどりの言葉で埋まっていた。

「また会おう」「最高のクラス」「先生、泣くな」。

吉乃はその隙間を縫うように、右下へ白いチョークで小さな扉を描いた。人差し指ほどの高さしかない、取っ手の丸い扉だった。

一年の春、初めての数学で赤点を取った日にも、吉乃は同じ扉を描いた。放課後、誰もいないと思って机に伏せていたら、掃除当番の玲司が見つけた。

「何それ」

「逃げ道」

「小さすぎない?」

「大きいと先生に消されるから」

玲司は笑わず、扉の向こうに一本の道を描いた。山を越え、川を渡り、黒板の端まで続く道だった。

それから、吉乃がつらい日に扉を描くと、翌朝には何かが増えていた。橋、灯台、駅、羽のある船。玲司は自分だと認めなかったし、吉乃も訊かなかった。

三年の秋、進路希望票を出せずにいた日、扉の先には二股の道が描かれていた。どちらの先にも丸い太陽があった。それを見て、吉乃は県外の美術大学に丸をつけた。

卒業式が終わり、教室へ戻ると、黒板の前は写真を撮る人で渋滞した。泣く者、笑う者、制服のボタンを渡す者。吉乃は輪の外で、右下の扉だけを見ていた。

そこへ玲司が来て、青いチョークを一本折った。

「最後くらい、認めたら?」

「何を」

「道、描いてたの、俺」

知っていた、と言う代わりに吉乃はチョークを渡した。

玲司は扉の先に短い階段を描き、その下に文字を添えた。

――三月二十日、十時。駅前の喫茶店。

「これは逃げ道じゃない」と玲司が言った。「待ち合わせ場所」

教室の後ろから、黒板を消すぞ、と声が飛んだ。吉乃は黒板消しを受け取り、みんなの言葉を上から順に消した。粉雪のようなチョークが床へ落ち、三年間が白く濁っていく。

右下まで来て、手を止める。

「そこも消す?」と玲司が訊いた。

吉乃は扉の周りだけを四角く残し、黒板消しを置いた。

「ここから先は、消さない」

誰もいなくなった教室で、小さな扉だけが、青い階段の先へ開いていた。