黒板の端まで
「黒板は端まで消してください」
王都第二学院で魔法史を教えるイグナート・ベルクは、授業より黒板消しに時間をかける教師だった。生徒が帰れば窓を開け、白墨の粉を払い、机の脚を一つずつ揃える。勇者の肖像画を説明するときも、「昔の人です」の一言で済ませるので、人気はない。
その夕方、忘れたノートを取りに戻った一年生のノエルは、教卓の陰で息を止めた。黒板に消し残された黒い染みが膨らみ、角と翼を持つ影になったからだ。
『ようやく見つけたぞ、暁の勇者』
魔王軍最後の将、屍翼バルザグ。百年前、七つの国を焼いた名が、粉のような声で教室に満ちる。
イグナートはため息をついた。
「消し残しがありましたか」
彼は白墨を一本つまみ、黒板に縦線を引いた。ただそれだけだった。
影の身体にも同じ白い線が走った。バルザグが爪を振り上げるより早く、その巨体は音もなく二つに分かれ、白墨の粉へ変わった。窓から入った夕風が粉をさらう。剣も光も詠唱もない。かつて聖剣で空を割った一撃が、今は黒板の一線に収まっていた。
ノエルが机の下で震える間に、教師は黒い染みを布で拭き、床に落ちた粉を小さな箒で集めた。裂けた壁も焦げ跡もない。黒板には明日の授業題目だけが残る。
「先生、いまの……」
ノエルが立ち上がると、イグナートは落ちていたノートを差し出した。
「忘れ物ですよ。今日見たことも、授業には出ません」
ノエルは壁の勇者像と、目の前の教師を見比べた。絵の男は聖剣を掲げ、金の鎧を着ている。イグナートは袖に白墨をつけ、布のほつれた上着を着ていた。それでも目だけは同じだった。世界を救ったことより、明日の授業を乱されたことを少し迷惑そうにしている目だ。ノエルは、英雄が消えたのではなく、名乗る必要のない場所へ戻ったのだと悟った。そこでは勲章より、消し残しのない黒板のほうが大切なのだ。
彼は黒板消しをノエルに渡し、いつもの冴えない声で言った。
「黒板は端まで消してください」