黒漆の軍配
夜半、鷺坂宗冬は軍配の黒漆を爪で叩いた。金の月を描いた表ではなく、傷だらけの裏だった。
「夜明け前、北門を開ける。降伏と見せて敵将を門内へ誘い、油を浴びせろ」
久慈弦之丞は膝をついたまま、軍配を見た。その縁には小さな欠けが七つある。宗冬が城を奪うたび、弦之丞が刻んだものだ。七つ目は弦之丞の故郷だった。降った村人まで斬られ、井戸に投げ込まれた。
「敵将が疑えば」
「この軍配を見せろ。わしが門上に立つ。金の月を上げれば、偽りではないと分かる」
敵も知っている。宗冬は勝負の合図に、必ず金の月を掲げる。だからこそ信用する、と宗冬は笑った。
弦之丞は軍配を受け取った。軽い。人の命を指す道具は、いつも驚くほど軽い。
北門の番頭は弦之丞の古い部下だった。敵方の間者と通じさせたのも弦之丞だ。ただし、宗冬が考えているような偽りの降伏ではない。門を開いた後、油蔵の鍵を外し、城兵の武器を置かせる。敵将には、略奪を禁じる誓紙を書かせた。
「おぬし、顔色が悪いぞ」
「七つの城を見てきましたので」
「八つ目も同じだ」
宗冬は酒をあおった。城下には、徴発を逃れて寺へ集まった百姓がいる。明朝の混乱に紛れ、宗冬は寺ごと焼くつもりだった。口減らしだ、と昼に言った。
弦之丞は立ち上がり、櫓へ向かった。廊下では若い足軽が、明日の褒美の話をしていた。生き残れば田を二反もらえるらしい。宗冬が昨日、同じ田を三人に約束したことを、彼らは知らない。弦之丞は教えなかった。裏切りは言葉にした瞬間、安っぽい正義になる。
風は東から吹いていた。敵陣の松明が、黒い野に無数の目のように並んでいる。寺の方角から、湿った薪の煙が届いた。
丑三つ。北門の向こうで、馬の鼻息が一度だけ鳴った。
宗冬が櫓へ上がってきた。
「掲げろ」
弦之丞は軍配の柄を握った。表を向ければ敵将だけが入る。裏を向ければ全軍が進む。それが敵方と決めた合図だった。
「弦之丞」
「七つ目で、やめておくべきでしたな」
宗冬が刀へ手をかけるより早く、弦之丞は黒漆の裏を夜空へ突き上げた。
下で閂の落ちる音がし、北門が開き始めた。