黒縄の軍配

夜半、朔馬は死んだ男の血を頬に塗った。冷えて脂のようになった血だった。

男は敵将・峰岸丹後の使番で、喉を一文字に裂かれていた。朔馬が借りたのは陣羽織ではない。泥に落ちていた軍配だけだ。黒漆の面に三日月、柄には黒い組紐。味方の白峰城へ届ける命令は紙になっていなかった。黒縄の結び目そのものが命令だった。

「二つ太鼓で西門を開ける。城兵は残らず出る」

主君はそう言い、結び目を右から左へ一度だけ返した。見落とせば城は落ちる。読まれれば城も朔馬も終わる。

敵陣は雨で膝までぬかるんでいた。朔馬は峰岸の馬にまたがり、軍配を胸の前へ立てて進んだ。最初の柵では誰も止めなかった。二つ目で、槍足軽が火皿をかざした。

「丹後様は左手で軍配を持つ」

朔馬は答えず、右肩を押さえて身を傾けた。そこには自分で付けた浅い刀傷がある。足軽は血を見て、道を空けた。三つ目の関では、若い侍が馬の口を取った。

道の脇には、明朝の攻城に使う梯子が泥へ寝かされていた。縄は新しく、先端には城壁へ噛ませる鉄鉤が光る。白峰の兵数では正面から受ければ半刻も持たない。朔馬は数えずに通り過ぎた。伝令が持ち帰るのは景色ではなく、命令だけだ。

「御陣へ戻られよ。白峰の西は崖だ。出るなら東門」

それが誘いだと朔馬には分かった。敵は城内に内通者を持っている。ここで西と言い張れば、軍配の意味まで疑われる。

朔馬は軍配で若侍の頬を打った。峰岸丹後が部下に説明する男かどうかは、死体の顔つきで知っていた。若侍は唇を切り、平伏した。

敵陣の外れで、本物の峰岸丹後を知る老武者が松明を上げた。朔馬は顔を伏せず、その横をゆっくり通った。急げば追われる。堂々としていれば、疑いは相手の臆病に変わる。老武者の視線が背へ刺さったまま、最後の空堀を越えた。すると白峰城の矢が降った。朔馬の馬が崩れ、彼は泥へ投げ出された。左腿に一本刺さったまま、軍配だけを高く掲げた。

城壁の上で、古参の物見が息をのんだ。三日月ではない。柄の黒縄を見たのだ。

敵陣で一つ目の太鼓が鳴った。内通者が予定どおり東門へ兵を集めている。

朔馬は泥を噛みながら、結び目を左へ向けた。

二つ目の太鼓が鳴る。

白峰城の西門が、音もなく開き始めた。