Wi-Fi停戦協定
夕食中、母がルーターの電源を抜いた。
「何すんだよ!」
「食卓で動画を見ない約束でしょう」
「連絡が来てたんだよ。母さんだって仕事のメール見るじゃん」
「仕事と遊びは違います」
「都合よすぎ」
十五歳の息子は箸を置き、部屋へ引き揚げた。翌朝、冷蔵庫に紙が貼られていた。
〈食卓での通信機器使用を全面禁止する。ただし母親の仕事は除く〉
その下に、赤ペンで追記した。
〈異議あり。家族全員に同じ法律を適用せよ〉
母は青ペンで書いた。
〈扶養されている者に立法権はない〉
〈では今夜から食器洗い、洗濯物取り込み、風呂掃除を停止する。労働者にも権利はある〉
戦いは三日続いた。
四日目、食卓の中央に菓子箱が置かれた。母は自分のスマートフォンを入れ、蓋を閉じた。
「夕食中は全員、ここへ」
「仕事の連絡は?」
「食べ終わってから返す」
息子も渋々、端末を入れた。
最初の夜は、箸の音しかなかった。
二日目、母が「味噌汁、濃い?」と聞いた。
「普通」
三日目、息子が学校の牛乳が紙パックから瓶へ戻ったという、どうでもいい話をした。
五日目、菓子箱の中で母の着信音が鳴った。画面には上司の名前が光っている。
「出なくていいの」
「今は夕食」
「俺の連絡とは違うんじゃなかった?」
「法律が変わりました」
母は平然と魚の骨を取った。
その夜、息子は初めて、クラスのグループから外されていることを話した。スマートフォンを見ていたのは遊ぶためではなく、自分だけ知らない会話が増えていないか確かめるためだった。
母はすぐに助言しなかった。
「それは、画面を置くのが怖いね」
そう言っただけだった。
息子は少し泣きそうになり、「味噌汁、今日しょっぱい」とごまかした。
一か月後、停戦協定に一条が加わった。
〈緊急の場合は、使用理由を申告して箱から出してよい。申告を笑わないこと〉
ある晩、母と息子の手が同時に菓子箱へ伸びた。
「仕事?」
「動画」
二人は顔を見合わせた。
「緊急?」
「新作が今日まで」
「こっちは締切が今日まで」
協議の結果、二人とも十分だけ許可された。
停戦とは、喧嘩をしなくなることではない。
同じ食卓へ戻るための規則を、何度でも書き直せることだった。