一桁多い春
決算承認会議で、入社二年目の鳥飼澄人に与えられた役目は、資料をめくることだけだった。
青錆工機の役員十二人が見つめるスクリーンには、過去最高益の文字が浮かんでいる。最後の押し上げ要因は、東南アジアの販売会社への制御基板四億八千万円。経理部長は「三月三十一日検収済み」と滑らかに説明した。
会議の前夜、澄人は売掛金の年齢表を作りながら、その得意先だけ入金予定日が空欄なのに気づいた。上司へ尋ねると「役員案件だから触るな」と言われた。触るなと言われた数字ほど、経理では後から誰かの責任になる。
澄人は膝の上で、同じページを二度めくり損ねた。
「何かあるのか」
議長に言われ、喉が鳴った。
「送金通知は、四千八百万円でした」
経理部長が笑う。
「第一便だけだ。追加分は売掛金に残っている」
「では、数量は四千枚ですか」
「資料にあるとおりだ」
澄人は手元の封筒を開いた。海外営業から回ってきた原本は、彼が月次照合のために保管していたものだ。検収数量は四百枚、単価十二万円。掛け算すれば四千八百万円になる。
スクリーンの写しでは、四百の右にゼロが一つ増えていた。
「スキャン時の欠けを補正したんだろう」
今度は管理本部長が口を挟んだ。
澄人は原本を会議机の中央に置いた。顧客の青い丸印は、数量欄の最後のゼロに半分かかっている。
「四千枚なら、印鑑は最後のゼロにも重なるはずです。でも決裁資料の四つ目のゼロは、印影の外にあります」
会議資料を作った課長が、無意識に自分のパソコンを閉じた。閉じる音だけが、やけに大きく響いた。
誰も紙に触れなかった。
社長だけが身を乗り出し、原本とスクリーンを何度も見比べた。経理部長の指が、机の下で小さく動いていた。
「一桁くらいで騒ぐな。来期に納めれば同じだ」
澄人は答えなかった。代わりに監査役が、四億八千万円と印字された決算承認書を自分の前へ引いた。
万年筆の先が、署名欄の直前で止まる。
「同じではない。今期には、ない売上だ」
議長は承認書を裏返した。
「決算決裁は、ここで止めます」