『濡れた社員証』
最終面接の机に、鷲尾遼は濡れた社員証を置いた。
「前職で豪雨災害に遭いまして。地下倉庫に取り残された施設員を救助した際、これを泥水に落としました」
退職理由を問われた鷲尾は、ためらいなく続けた。会社は事故の責任を彼に押しつけ、救助の功績まで上司のものにしたという。役員二人が感心したように頷く中、人事部長の椎名紗英だけは社員証を裏返した。そこには、彼女が十年前まで勤めていた会社のロゴが残っていた。鷲尾は椎名の旧姓も、当時の所属も知らない。
「救助したのは、七月十二日の十九時二十分ですね」
「はい。停電直前です」
「地下へ入ったのは一人で?」
「誰も動かなかったので」
椎名は壁のモニターに、前職から照会で届いた入退館履歴を映した。鷲尾の社員証は十八時四十二分に退館し、その後は使われていない。
鷲尾はすぐ答えた。
「非常時です。裏口から戻りました」
「では、この社員証が濡れたのは?」
「救助中です」
「退館後も首に掛けていた、と」
役員の一人が眉を寄せた。鷲尾は笑みを崩さず、当時は混乱していたと説明した。
椎名は次に共有フォルダの更新履歴を開いた。事故報告書の初版には、救助者として設備担当の旧姓「坂東紗英」と警備員の名がある。二日後、総務共用端末から「坂東」が消され、「鷲尾遼」に置き換わっていた。更新した端末へのログインは鷲尾のIDだった。
「共用端末だから、誰でも」
「端末の前にいた人までは分かりません。ただし、削除された坂東本人なら、誰を引き上げたか覚えています」
椎名は袖をまくった。手首に、金属棚で裂いた白い傷が走っていた。
「あの夜、地下にいたのは私です。あなたは翌朝、濡れた社員証を乾かしている私に、事故の話を聞きに来ただけでした」
鷲尾の指が社員証を隠すように重なった。
椎名は採用判定欄の「可」に引かれていた鉛筆線を消し、濡れた証拠の横へ「否」と書いた。