「今は」のない電報

昭和八年、安居院初江は、東京で印刷所を始めた丹生谷栄一からの電報を待っていた。

栄一は、店が軌道に乗ったら初江を呼ぶと約束していた。

だが初江の父が倒れ、家の借金も増えた。

親戚は、近村の米問屋との縁談を急かした。

初江は栄一へ電報を打った。

〈チチビョウキ エンダンアリ ドウスレバヨイ〉

返事は翌日の夕方に届いた。

〈コナクテヨイ〉

六文字だった。

初江は何度も読み返した。

東京へ来なくてよい。

待たなくてよい。

もう二人の約束は要らない。

どれも書かれてはいないのに、全部書かれているように見えた。

彼女は米問屋へ嫁いだ。

栄一が送るつもりだった文は、こうだった。

〈イマハ コナクテヨイ チチウエヲミヨ カナラズムカエニイク〉

しかし電報料を数えたとき、彼の財布には店の紙代を払う分しか残っていなかった。

「事情は分かっているから、これで伝わる」

そう思い、最初の〈イマハ〉と後半を削った。

翌月、印刷所が初めて黒字になった。

栄一は迎えに行く汽車賃を握って故郷へ戻り、初江の婚礼写真を見た。

彼は祝福の手紙を書いた。

初江は返事を出さなかった。

言葉を間違えた人から、今さら正しい言葉を受け取るのが怖かった。

二十八年後、町の電信局が閉鎖されることになった。

記念展示のため古い受付簿を整理していた初江の息子が、母の名を見つけた。

そこには受信文と、東京局から送られた原票が綴じてあった。

原票の余白に、栄一の鉛筆書きが残っていた。

〈イマハ〉

送信前に消した一語だった。

初江は展示室へ行った。

同じ日、栄一も、かつて自分が打った電報を見るため訪れていた。

二人は白髪になっていた。

それぞれ配偶者を見送り、子も孫もいた。

「『今は』があれば、待ちました」

初江が言う。

栄一は首を振った。

「後ろの『必ず迎えに行く』まで送るべきだった」

「高かったのでしょう」

「一生よりは安かった」

二人は笑った。

笑わなければ、失った年月を誰かのせいにしてしまいそうだった。

「幸せでしたか」

栄一が訊く。

「はい。だから、あの電報を恨めません」

「私もです」

閉局の鐘が鳴った。

二人は別々の出口へ向かった。

初江は原票の複写を一枚だけもらった。

帰宅すると、〈コナクテヨイ〉の前へ、自分の鉛筆で〈イマハ〉と書き足した。

人生は戻らない。

それでも六文字の別れを、八文字の約束だったことに直すくらいは、許されると思った。