あと半歩、寄って
「顎を引いて。肩の力を抜く」
「十一年働いた人間への最後の言葉が、それですか」
瀬能志都は、大学の卒業写真用に置いてあった角帽をかぶり、淡路写真館の背景紙の前で頬を膨らませた。
その日、最後の学校撮影を終えた志都は、故郷へ戻って父の写真館を継ぐことになっていた。淡路総一郎と一緒に店を切り盛りして十一年。赤ん坊のお宮参りから遺影まで、二人で何千人もの人生を四角い画面に収めてきた。
「笑って」
「送別会でも同じ指示でしたね」
「泣いたからだ」
「誰の挨拶が退屈だったせいでしょう」
「俺のせいにするな」
志都は角帽の房を直しながら笑った。
「私の卒業写真、ちゃんと撮ってください。見返したら戻りたくなるくらい」
「戻ればいい」
「今、何て?」
「顎が上がってる」
総一郎はファインダーに逃げた。彼女がいなくなれば、朝いちばんにカーテンを開ける人も、現像液の温度を歌で覚えている人も、彼の無愛想を客に通訳する人もいなくなる。
困る、と言うだけなら簡単だった。
卒業しないでくれ、と言うには、十一年は長すぎた。
「店長も入ってください」
「これはおまえの写真だ」
「卒業生を一人にしないのが写真館でしょう」
志都はセルフタイマーを十秒に設定した。総一郎は仕方なく隣へ立つ。肩と肩のあいだには、もう一人入れそうな隙間があった。
「もっと寄らないと、家族写真みたいになりませんよ」
「家族じゃない」
「そうですね」
その返事だけが、妙に静かだった。
赤いランプが点滅する。
総一郎はいつものように数えた。
「三、二、一」
本当はその前に、あと半歩、寄って、と言うつもりだった。
けれどシャッターは、言葉より先に落ちた。
翌朝、現像した写真の中で、志都はカメラではなく総一郎を見ていた。総一郎だけが、何も知らない顔で正面を向いていた。
数年後、新しい助手がその写真を見つけた。
「この人、店長のこと好きだったんじゃないですか」
「撮影失敗だ。視線がずれてる」
「捨てないんですね」
「失敗から学ぶのが仕事だ」
春になるたび、総一郎は卒業生たちを並べ、笑顔で同じ言葉をかける。
「もう少し。あと半歩、寄って」
あの日の二人にだけ、最後まで言えなかった言葉だった。