しおり先生の居眠り

【四月十二日 読書犬活動記録】

参加児童一名。榎並湊生、十歳。

本を開かず。犬の栞を二十三分撫でて終了。

【五月十日】

湊生、『大きな木』を一行読む。「お」が出るまで四十秒。栞、待機。途中であくび。

本人、「笑わなかった」と発言。

【六月十四日】

三ページ読む。栞、熟睡。

本人、「聞いてないなら、まちがえても平気」と発言。

図書館の小部屋で、湊生は月に一度、ラブラドールの栞へ本を読んだ。

教室では声が詰まるたび、誰かが続きを言った。「頑張れ」と励ます声さえ、急かされる時計の針に聞こえた。けれど栞は、最初の一音が出るまで伏せていた。正しく読んでも尻尾を振らず、間違えても眉をひそめない。ときどき盛大ないびきをかいた。

【十一月八日】

一冊読了。所要五十六分。

本人、「しおり先生は、返事が遅くても帰らない」と発言。

翌春、栞の引退が決まった。十二歳。後ろ脚が弱り、小部屋までの廊下を歩くだけで息が上がるようになった。

最後の活動日は、図書館の開館記念日と重なった。館長は湊生に、子ども代表として大広間で朗読してほしいと頼んだ。椅子は百席。小部屋の五十倍だった。

「無理です」

その言葉だけは、つかえずに出た。

当日、湊生は逃げるつもりで裏口へ向かった。だが扉の前に、黄色い毛布を敷いた台車があった。栞が寝そべり、係員に押されてきた。老犬は湊生の靴を嗅ぐと、いつものように顎を前脚へ置いた。

大広間の壇上で、湊生は本を開いた。

最初の「む」が出ない。客席が静かになる。喉の奥で言葉が転び、息だけが漏れた。

そのとき、最前列から、ぐう、といびきが響いた。

小さな笑いが起きた。からかう笑いではなかった。湊生も笑った。すると固かった息がほどけた。

「む、昔、海のそばに――」

声は何度も止まった。そのたび栞は眠り、誰も続きを奪わなかった。

読み終えるまで、十二分かかった。拍手が来ても、栞だけは起きなかった。湊生は壇を下り、老犬の耳元へ言った。

「先生。ぼく、最後まで読めたよ」

栞の尻尾が、毛布を一度叩いた。

【四月十三日 活動記録】

記録者・榎並湊生。

栞先生、引退。

教わったこと――言葉は速さではなく、待ってくれる誰かへ届くもの。