すみませんを運ぶ烏
綿貫灯里のメールは、たいてい「すみません」から始まった。確認を頼むときも、会議室を使うときも、相手の入力ミスを直してもらうときも。謝っておけば角が立たない。それは入社三年で身につけた、薄い防具だった。
昼休み、灯里はビル裏のベンチでおにぎりを食べていた。足元へ降りた烏が、コンビニのレシートをくちばしで引いた。
「それ、食べてもおいしくないよ」
烏は首を傾げたあと、はっきり言った。
「おまえの口ぐせは、食えるか」
灯里はおにぎりを落としかけた。烏は逃げず、レシートを爪で押さえる。
「いらない言葉を一つ書け。ここへ置け」
命令だけして、黒い目で待っている。灯里は鞄からペンを出し、レシートの裏に〈すみません〉と書いた。烏はそれをくわえ、隣の室外機へ飛び移った。紙を飲み込むのかと思ったが、細く裂いて風へ放した。白い切れ端は生け垣に引っかかり、謝罪だけが読めない形になった。
灯里は、防具を奪われたようで落ち着かなかった。謝らずに戻れば、声や足音まで強くなってしまう気がする。エレベーターの鏡で口元を確かめ、いつもの柔らかな笑顔を作ったが、烏の問いだけは消えなかった。あの言葉は誰を守り、誰の責任を灯里へ運んでいたのだろう。
午後、隣のチームの先輩からチャットが来た。先輩が誤って消した顧客データを、今日中に復元してほしいという。最後には〈灯里ちゃんなら早いよね〉と笑顔の絵文字があった。復元には二時間かかる。灯里が準備していた報告書は、また後回しになる。
いつもの指が、〈すみません、すぐ対応します〉まで打った。
窓の外を烏の影が横切る。灯里は文章を全部消した。胸の薄い防具を外すと、思ったより冷たい空気が入った。
事実だけを並べる。復元に必要な時間。今日の自分の締切。削除操作をした担当者の確認が要ること。
最後に、〈担当者を含めて優先順位をご相談ください〉と書き、先輩と上司を同じチャットに入れた。謝罪の置き場所は、どこにも作らなかった。
送信ボタンを押すと、机の上に残っていたおにぎりの海苔が、ぱり、と小さく鳴った。