ひとつだけ濁る音

二十六歳の岩永伽耶は、企画書の一枚目を十七回直していた。化粧品会社のデザイナーになって四年。淡い青を選べば冷たいと言われ、桃色を足せば若すぎると言われる。修正される前に相手の好みを予測するうち、自分が最初に何色を置きたかったのか分からなくなった。

翌朝は新商品の案を見せる会議だった。伽耶のパソコンには、誰にも見せていない濃い紫の案がある。店頭では浮くかもしれない。説明もまだ粗い。共有フォルダへ入れようとして、結局いつもの無難な薄桃色だけを保存した。学生時代、伽耶は濁った色を重ねるのが好きだった。卒業制作の講評で『売り物にはしにくい』と言われてから、好きという理由を提案書に書けなくなった。採用される色を当てることだけは上手になった。

残業後、オフィス街の角でサックスが鳴っていた。演奏していた片瀬ルイは、銀色の楽器に赤い紐を結び、通り過ぎる人の靴を見ながら吹いている。滑らかな旋律の途中、一音だけざらついた。伽耶は反射的に眉を寄せた。

片瀬が楽器を下ろした。

「今、どの音を消したくなりました?」

「途中の、少し外れた音です」

「では帰る前に、その音を口で一度まねしてください」

冗談だと思ったが、片瀬はもう次の曲を始めた。伽耶は歩き出し、横断歩道の手前で立ち止まった。人の少ない夜とはいえ、濁った音を声にするのは恥ずかしい。小さく「ぶぁ」と鳴らしてみる。自分で驚くほど不格好で、思わず笑った。

背後から同じ濁りが返ってきた。今度は曲の中で、そこだけが扉の軋みのように耳に残った。完璧な音列より、その一音のあとに旋律がどう進むかを聞きたくなった。

帰宅すると、会議資料の締切まで四十分あった。伽耶は薄桃色の案を開き、閉じる。濃い紫の画面には、仮の写真と手書きの文字が残っていた。きれいに整える時間はない。共有フォルダの前で指が止まる。

ファイル名を「没案」から「初案・意見ください」に変えた。説明欄へ〈まだ一音、濁っています〉と書き、伽耶は紫の案をアップロードした。